「ただいまー。」

珍しく灯りのついた部屋へと足を踏み入れる。自分よりも先に家に帰っている人がいて、出迎えてくれることが幸せなんだと思い出したのは多分孝支と付き合うようになってからだ。
自然と緩む頬はそのままに、ソファーに腰掛けて雑誌を読んでいる彼に正面から抱きつく。

「孝支がいるー。」

ふふふ、と笑みを零しながら彼の首に腕を巻きつけて、その白い首筋に顔を埋める。嗅ぎ慣れた彼の匂いに癒される、とか思ってしまう私はちょっと変態なんだろうか。こういう時、彼に合鍵を渡しておいてよかったと改めて思う。またこの土地を、孝支の側から離れると決まったせめてもの償いに、と預けた合鍵。出来るだけ一緒にいたい、と言った彼の言葉への私なりの応えのつもりだったのに。結局私の方が救われてしまっているのだから、我ながらどうしようもない。

「おかえり。っていうか、名前さん酒くさっ。」
「だって飲んできたもーん。」
「一人で?」
「いや、会社の同期と。」

飲み会だったのさ、と言えば、ふうん、と声を漏らした孝支の声はどこか不満気だ。職業柄、男の人が多い職場絡みの飲み会を孝支は面白く思っていないらしい。行くな、とまでは言わなくても、飲み会がある、と言えば、彼はいつも不満そうに眉を寄せて分かった、と頷く。その正体が嫉妬や心配であることに気付かない程、私は鈍くもないつもりだし、かといって孝支に気を使って飲み会を断ることもしない。飲み会だって立派な付き合いの一つだし、それを理解出来ないお子様では私とて困るというのが本音でもある。
だけど、飲み会に行く度に嫉妬してくれる孝支が可愛くないといえば嘘になる訳で。

へへへ、と笑いながら孝支の首元から顔を離すと、彼の額にごつん、と自分のそれをぶつけ合わせる。

「いたっ、」
「だーいじょうぶよ、孝支が心配することなんて何にも無いから。ただ飲んで食べてきただけ。」

それだけ。彼の目を覗き込んで微笑んでみせる。バツが悪いのか、ふい、と目を逸らした孝支を見てまた笑みを零す。そんな仕草さえも可愛く映ることを、彼は気がついているのだろうか。

「・・・あのさ、」

いつになく重たげに孝支が口を開く。どうした?、と聞けば、孝支はちらりと私を一瞥したあとですぐに目線を下げて、押し黙ってしまう。ただ黙って彼の言葉を待っていると、暫くして孝支がゆるゆると私を見上げる。

「我儘、言ってもいい?名前さん困らせるだけだって分かってるけど、」
「いいよ。」
「・・・行かないで。」
「うん?」
「東京なんて行かないで。こうやってずっと俺の側にいて。この部屋で名前さんが帰って来るの待っていたい。また名前さんを待ってるだけなんて嫌だよ。」

苦しげな表情で紡がれる言葉には寂しさや悲しさが滲んでいて、不意に「いっちゃやだ」と泣きながら私にしがみついたあの日の幼い孝支と姿が重なる。あの日、私はどんな言葉をかけて彼と離れたんだろう。どんな言葉を彼に残したんだろう。遠い記憶を探ってみても思い出せないのは、流れた時間のせいか、あるいは酔いのせいか。

「やっと言ったね。」

孝支に笑いかければ、彼は不思議そうに目を丸くする。

「行かないでってやっと言ってくれた。」

東京に行くことになったと打ち明けても、彼は行かないでとは言わなかった。孝支に伝えることが遅くなったことを責めても、東京行きを責めることはなかった。仕事だから仕方ない、と簡単に受け入れられてしまったことが寂しかったなんて、きっと孝支は気付いていないだろう。行かないで、と言われなかったことにほっとした半面で、言われなかったことに寂しさを感じていたなんて。

「孝支はまだ18なんだからさ、大人のフリして、物分りのいいフリなんかしなくていいんだよ。言いたいこと、思ってること素直に言っていいの。」

少しずつ大人へと近付いていく君が、優しい君が、「寂しい」を飲み込んだことが寂しかった。私を困らせまいとしたことはちゃんと分かってる。それでも、

「困らせたっていいんだよ。そんなことで孝支を嫌いになったりなんかしないから。」

彼の頭をそっと自分の胸へと抱き寄せる。ぽん、ぽん、と宥めるように彼の頭を叩けば、孝支の腕が私の背中に回って、ぎゅう、と力強く抱き締められる。行かないで、と今にも消え入りそうな声で呟いた孝支の声。

何処にも行かない、なんて約束は出来ないけれど、せめて東京へ行くまでの残された数日という時間は、ずっとずっと君の隣にいるから。飽きる程に君の隣にいて、君の「寂しい」も「行かないで」も涙も全部私が受け止めるから。だから、どうか大人のフリして言いたいこと飲み込むなんてことはしないでよ。



等身大の君で
(無理して背伸びなんかしなくていいの)