昇降口で彼女が来るのを待つ。心臓の音がいつになくドキドキと響く。緊張しているのか、あるいは怖いのか。そのどちらも多分間違いではなくて、その両方が私にいっそ逃げてしまえとそそのかす。だからこそ逃げてたまるものか、と手を握り締める。
その時目の前を横切った、待っていたその人。彼女の背中に声をかけたのは、勢いに近かった。

「秋山さん!」

無言で振り向いた彼女に、思わず逃げ腰になるのを堪えて、握った手に力をこめる。

「少し、話があるんだけど。」

絞り出した声は少し震えていたような気がする。





「で?話って何?」

校舎の壁にもたれて立つ秋山さんの顔は至極面倒臭そうだ。というよりは、ろくに話したこともない私にこんな人気のない校舎裏へ連れてこられて、苛立っているのかもしれない。ピリピリとした空気に、つい怯む。

「あ、の、噂って本当なの?」
「噂って?」
「その、秋山さんが大学生の人と浮気してる、って、」

怯む気持ちを抑えて、思い切って早口にまくしたてた。そうしてからもっとマシな、控えめな表現はなかったのかと後悔する。いくらなんでも、直球すぎる聞き方だ。

「ああ、知ってたの?」

そう言った秋山さんの声は至って平静で、動揺するどころか気にも止めていないらしい。表情一つ変えずに肯定してみせた彼女に、僅かに苛立つ。

「知ってたの、って、罪悪感とかないの?秋山さんは菅原と付き合ってるんでしょ?」
「孝支、ねえ。ちょっとカッコイイし、優しいから付き合ってみたけど、それだけってカンジなんだよねえ。部活ばっかりで全然構ってくれないし。」

つらつらと彼女の口から述べられる言葉に、苛々が募る。
何それ。何その言い方。一体何を言ってるの。

「正直、大学生の彼の方が大人だし、私のこと構ってくれて一緒にいてくれるし。良い子のフリするのも疲れちゃったんだよね。悪いけど孝支にはもう飽きちゃった。」

にっこりと微笑んだ彼女を見た瞬間に、私の中の何かがぷつりと音を立てて切れた。考えるよりも先に手が伸びて、気がついた時には彼女の頬を叩いていた。

「っ、いった、何すんのよ!」

ぱん、と乾いた音が響いて私の左頬に痛みが走る。それでも怯まない。怯むつもりなんてない。彼女を睨みつけると、その肩を突き飛ばす。

「名字ッ!!」

彼女へと掴みかかろうとして、鋭く名前を呼ばれたと思った次の瞬間には、誰かに後ろから羽交い締めにされた。

「離して!離してってば!」

じたばたもがいてもその人は強い力で私を押さえ付けて、離してくれない。
嫌だ。いやだ。離して。離してよ。私はこの人を殴らなきゃ、詰らなきゃ、罵らなきゃ、気がおさまらないの。許せない。

「落ち着けって、名字!」

私を拘束するその腕の、宥める声の主が菅原であることなんてとっくに理解している。それでも、だからこそ苛立つ。自分でも制御出来ない程の強烈な感情が牙を剥く。

「孝支、何でここに、」
「旭が二人でいる所を見かけたっていうから。珍しい組合せだったし、少し気になって追いかけてきたんだ。」

二人が話している間にも、菅原の腕から逃れようともがく。びくともしない腕の強さに、更に苛立ちが増す。
離してくれないなら、いいよ。このままでいい。このままで詰らせて。

「菅原は本気で秋山さんのこと好きだったのに、何で飽きたとかそんな酷いこと簡単に言えるの!?好きじゃないなら何で付き合ったの!?」
「名字、もういいよ。」
「…私がどんな理由で誰と付き合おうと私の勝手でしょ?アンタに関係ないじゃない。」
「関係あるよ!菅原は私の大事な幼馴染みなんだから!ずっと一番近くで応援してきたんだから!」
「もういいって、名字!」

声を荒らげた菅原の手で口を塞がれる。少し黙ってて、と呟いた声は今まで聞いたことのないくらい低くて、思わず押黙る。

「秋山、俺たち別れよう。」

菅原の静かな声に息を飲む。これ以上は意味がないだろ?、と話す菅原の声は怖い程に落ち着いている。その声に少しずつ、私の苛立ちが収束していく。

「そうだね。」

頷いた彼女の声はすっかり冷めきっていて、まるで感情なんてないみたいだった。じゃあね、と言ってさっさとその場を去った彼女の後ろ姿には、未練なんてものは微塵も感じ取れなくて、取り出したケータイで誰かと話す声は何もなかったように明るい。その仕草や声のすべてが、本当に菅原のことなんて興味が無かったと言っているようで、唇を噛んだ。

「名字、大丈夫か?」

ゆっくりと菅原の腕が離れて、くるりと私の体の向きを反転させられる。心配そうに私の顔を覗きこむ菅原の手が、叩かれて未だひりひりと痛む頬に遠慮がちに触れる。

「少し冷やした方がいいかもなあ。」

清水に頼んで氷準備してもらおうか、と提案してくれる菅原の手をそっと掴んで俯く。

「ごめん。」
「ん?」
「こんなつもりじゃなかったの。こんな結末を望んでた訳じゃ、」
「分かってるよ。」

菅原の声が優しくて、悔しくて、見つめていた筈の地面がゆらゆらと揺れて滲む。唇を噛み締めてみても堪えきれない涙がぽたぽたと地面に落ちて、染みを作っていく。

「っ、ごめん、」
「何で名字が泣くの?」

ふられたのは俺だろ?、と少しおどけるような、苦笑いしているような声が痛い。漏れそうになる嗚咽を咬み殺す。

「だ、って、菅原が泣かないから、」

だから私が泣くの。私の涙と一緒に、少しは菅原の痛みがどこかへ流れて消えたらいい。菅原の傷も痛みも全部、私が貰い受けられたらいいのに。

「ありがとう。」

菅原がそっと私の頭を抱き寄せる。額から伝わる菅原の温もりが、あやすように後頭部を優しく叩く手がまた私の涙を誘ったことを、菅原は知っているのだろうか。



君がつかれた嘘をも僕が飲み込むから
(だからどうか傷つかないで)