「なあ、名字ー。」

屈んだ私の背中にのしかかる重み。部屋にはぱちん、ぱちん、と自分の足の爪を切る音が響く。声の主でもあり、背中の重みの主でもある菅原に押しつぶされないように、丸めた背中に力を込める。

「何?」

ちらりと振り返れば、菅原は私の背中に彼の背中を預けるようにして座っている。背中合わせの姿勢では、振り向いた所で私には菅原の背中と後頭部くらいしか見えなくて、彼の表情は見えない。私を振り返る気配のない菅原に、すぐに向き直る。また、爪を切る音だけが響く。

二人で部屋にいる時はいつからか、この体勢が当たり前になってしまった。それは多分、幼い頃は互いに名前で呼びあっていた筈が、名字呼びへと変わった頃と同じくらいのような気がする。

「俺浮気されてるかも。」
「ッ!」

危うく皮膚まで切るところだった。はあ!?、と声を上げて振り向きたいのをすんでの所で堪える。切りかけだった左足の親指の爪をぱちんと切り落とす。

「…何でそう思うの。」

至って冷静なふりを装って尋ねてみる。
幼馴染みっていうだけで、何が悲しくて好きな男の恋愛相談など聞かなければならないのか。その悲しさに少しくらいは慣れたつもりだったのに、惚気話を聞かされたって、良かったね、ってやっと何でもない顔で笑えるようになってきたのに。
浮気だ?冗談じゃない。
募る苛立ちを誤魔化すように、残りの爪を切る。

「最近一緒にいてもずっとケータイばっか見てるし、つまらなそうなんだよなー。」
「女友達とやりとりしてるだけじゃないの?」
「今までは、俺といる時は彼女あんまりケータイ触ってなかったからさ。何か気になって。」

それに急に会う約束キャンセルされることも増えたし。菅原の呟きに、ああ、それは確かにグレーかもしれないと思いなおす。でも彼女が他の男とどうこう、なんて噂は今の所聞いた覚えがない。私が知らないだけか、それなりに上手くやっているのか、そもそもそんな事実など無いのか。いずれにしたって気分が悪い。ふざけるなと内心で悪態をつく。

爪切りからヤスリに持ち替えて、切ったばかりの爪を削って整えていく。

「もう少し様子見てみたら?私もちょっと友達に探ってみるよ。」

こういう時はゴシップ好きの友人、理沙の存在がありがたいと思う。もちろん彼女の良さはそれだけじゃないのだけれど。

「悪いな。助かる。」

背中にかかっていた重みが不意に軽くなって、菅原がこちらを振り向いた気配がした。爪を整える手を止めて振り向けば、困ったように笑った菅原と目が合った。

やっと目を合わせてくれた。それだけで嬉しいことなんて菅原は知らない。知らなくていい。

「任せなさいって。」

援護するって約束したでしょ、と笑いかければ、そうだな、と菅原も微笑む。そうしてまた私達は背中合わせの姿勢へと戻る。

「名字はどうなんだよ。大地と。少しは進展した?」
「何も。」

進展なんてある訳がない。だって私が好きなのは澤村じゃなくて、菅原なんだから。でも、菅原が今の彼女、秋山さんのことを好きなのだと打ち明けられた時に、どういう訳か咄嗟に嘘をついてしまった。今でもどうしてそんな嘘をついたのか、分からない。それでも言えることは、私の気持ちは菅原には隠したかったということ。私の気持ちを知られることで、菅原に迷惑がかかるのが嫌だった。困らせたくなかった。今の幼馴染みという関係が壊れてしまうのが怖かった。

結局は私の弱虫がついた、私を守るための嘘だったのだ。それが今もなお、私に傷を付ける。

「何だよー。折角同じクラスになったんだし、頑張れって。」
「いいの。今のままで。」

今のままでいい。今以上の何か、なんて私は欲しがっていない。欲しがらないって決めたのだ。私は私がついた嘘を貫き通す。ただそれだけ。



僕は嘘つき
(君のため、なんて本当は嘘)