今、何て言った?泊まっていいか、と聞かれたのは私の気のせいだろうか。いやきっとそうだ。そうに違いない。

「…ごめん、もう一回言って。」
「今日泊まっていい?」
「どこに?」
「ここに。」
「御両親には、」
「泊まってくるって言ってあるよ。もちろん了承済み。」

孝支の顔はにこにこ楽しそうに笑っている。思わず顔を右の手のひらで覆う。

どうして了承したんですか、おばさま。相手が私だからですか。信頼してるとか安心とかそういうことですか。いやでもですね、あなたの息子は現在高校生で、私はもう三十に近い所謂大人の女ってヤツですよ。何か間違いでもあったらどうするんですか。いや私はそんなつもりは毛頭無いですし、間違いを起こさせるつもりもございませんが、もし万が一があったら。それともあれですか、万が一があってもいいとか思ってらっしゃるんですか。

考えてありうるな、と思い至って頭が痛くなる。どこかふわふわした印象の優しいおばさまのことだ、無くは無いかもしれない。大きくなったら私と結婚するのだ、と言っていた幼い孝支の横で、彼の両親はそうなったら嬉しいなあ、と笑っていた顔が割と本気に見えて、どうしよう、と内心狼狽えたことは数知れない。

「どうしたの?」
「いや、どうしたの、じゃないでしょ。」
「だって名前さんは俺のこと男として見てないんでしょ?弟みたいって。だったら問題無いじゃん。」

にっこり笑った孝支を初めて悪魔だと思った。気遣いの出来る優しいいい子に育ったと思ってたのに、そんなことは無かったらしい。あろうことか、彼は人の揚げ足をとって自分の都合の良い展開へと事を進めようとしている。

「それに俺はもっと名前さんと一緒にいたいよ。」

更なる追い討ちに、膝から崩れ落ちそうになる。

やめて。頼むからやめてくれ。それ以上甘ったるい戯言を吐かれようものなら、私は陥落してしまう自信がある。お願いだから、その綺麗な顔でそんな台詞言わないでくれ。

「…そういう台詞は、好きな女の子に言ってあげなさいよ…。」
「俺が好きなのは名前さんだけだよ。」

ああ、とうとう言いやがった。人がずっと知らないふりしてたのに。気づかないふりをしていたのに。こんなにもあっけなく、さらりと彼は言いのけてしまった。

ずるずるとしゃがみこんで、孝支をちらりと見やる。先程から変わらない笑顔に内心で舌打ちをした。

だから嫌だったんだ。だからやめて欲しかったのに。そんな風に真っ直ぐな目で見つめられたら、私は陥落するしかない。今更何も聞かなかったことになんて出来ない。何もなかったことにして帰れなんて言えない。そこまで狡くできてない。そこまで狡い大人になんて、なりたくもない。

「分かった。泊まるのは許可するよ。だけど、」

返事は待って。

保留にすることが、それこそ狡い選択だと、中途半端だと分かっている。下手をすれば、孝支を傷つける結果になるのかもしれない。だけど。それでも、今の私じゃその気持ちに即答できない。私は私なりに自分の気持ちと向き合って整理する時間が欲しい。

「うん。待ってる。いつまでだって待つよ。」

俺はもうずっとずっと名前さんだけを見て、名前さんを待ってたから。

ふわりと笑った孝支に救われた自分が悔しい。大人ぶっておきながら、未だに大人になりきれない自分が情けない。
だけどごめん。今だけ。今だけ、君のその言葉に甘えさせて欲しい。