ローテーブルを占領して、黙々と勉強している孝支を横目でちらりと見る。時折悩んだように眉を寄せながらも、彼の手は休むことなく動く。
孝支が突然家にやってきたのは、今から数時間前。部活が終わったその足で、テストが近いからと、よく分からない理由をひっさげてここへ直行してきたらしい。冷蔵庫の残りもので作った簡単な夕食は、随分前にあっという間に平げられてしまった。少しだけ開けた窓から時折入る風が、壁にかけた七月のカレンダーを揺らす。

「名前さん。」

くるりと孝支が振り向く。何、と返せば、これ分かる?、とテーブルの上のテキストを指で示した。
高校の問題なんてさすがにもう無理だろ、と内心で呟きながらも、一応読んでいた小説を閉じて示された場所を覗きこむ。それが数学の問題であると分かるや否や、早々に私は白旗をあげた。

「無理。」
「ちょ、早くない?」
「もう高校の数学なんて覚えてないって。大学の時だったら解けたかもしれないけど、もう無理だわ。」
「ええー。」

不服そうに孝支が口を尖らせる。
いや、そんな顔したって無理なものは無理だから。

「物理だったらまだ何とかなるかもしれないけど、それ以外は無理。分からないなら後で先生なり、友達に聞きな。」

正確には物理は物理でも、電気分野限定だ。その部分だけは今も仕事で使うから多少はできるかもしれないが、あとはもうさっぱりだ。

「物理ができるってことは、もしかして名前さんって理系出身?」

少し休憩するつもりのようで、孝支が伸びをしながら聞いた。コーヒーでもいれようか、と提案すると飲むというので、立ち上がってキッチンへと向かう。

「もしかしなくても、そうだよ。」

お湯を沸かしながら答える。孝支が、ふうん、と呟いた。

「じゃあ名前さんは"リケジョ"なんだ。」

リケジョ、という言葉に思わず苦笑いする。明らかに文系の、理系ではない人間が差別するように作った言葉のような気がして、個人的にはあまり好きではないのだ。

「まあ、そうなんだろうね。ずっと理系にいることは間違いじゃないよ。」
「じゃあ、今はどんな仕事してるの?」
「組み込みソフト開発。要するにプログラミングとか。車のエンジン制御に携わってる。」

多分これ以上は説明しても伝わらないだろう。何となくでも伝わればそれで十分だ。仕事の全部を理解して貰おうなんて考えは、随分前に捨ててしまった。分かってくれる人がちゃんと理解してくれれば、それでいい。

「おおー、何かカッコイイなー。」
「どうしたの?急に。」

コーヒーをいれたマグカップを持って戻る。はい、と孝支に手渡す。

「進路どうしようかなって。」

進路。三年生はそれを決める時期でもある。バレーだけでも忙しいだろうに、自分の進路、将来と向き合わなければならないこの時期は大変だろうなあ、とぼんやり考えながら孝支の側に立ったままコーヒーをすする。

「ま、やりたいことやったらいいんじゃない?大学は高校と違って、自分のやりたい勉強がやれる場所だから。」
「うーん…。」

そうは言っても、自分のやりたいこと、興味がある分野がはっきりしている人間の方が実際には少ないだろう。当時の私を思い返してみても、例に漏れずやりたいことが見つからなくて随分悩んでいた覚えがある。
正直、どうしてこの分野を選択したのか、自分でもはっきりとした明確な理由は覚えていない。気がついたらこの場所に立っていた。

「俺、今やりたいことって言ったらバレーだもんなあ。」

孝支の呟きに、ふ、と笑みを零す。くしゃりと彼の髪を撫でる。小さな頃は何度もこうして孝支の髪を撫でてやったな、と思い出す。

「焦らずゆっくり考えたらいいよ。」

慰めたつもりが、何故かじ、と孝支に見つめられてしまった。…いや、睨まれた、という方が正しいかもしれない。

「またそうやって俺を子供扱いする。」

どうやら拗ねているらしい。子供扱いしたつもりはなかったのだけれど、孝支はそう感じたようだ。ごめん、と呟いて苦笑する。また彼の髪を撫でようとして途中で手を止めた。この仕草そのものが、彼にとっては面白くないのかもしれない。

「そうだよなあ、孝支だってもう18なんだから、子どもじゃないんだよなあ。」

子供扱いしたつもりはない。だけど、私が無意識にしている行為は子供扱いそのものだったのかもしれない、と思い直す。彼をちゃんと見ようと、向き合おうと決めた矢先からこれなんだがら、我ながら呆れてしまう。

「どうしたの?」

不思議そうに私を見上げた孝支に、何でもない、と笑いかける。

「帰る時は言って。送ってくから。」
「あ、それなんだけどさ、今日ここに泊まっていい?」

思いもよらない言葉に、あやうくまだ熱いコーヒーの入ったマグカップを取り落としかけた。