『ひとりぼっちは、もう大丈夫』




夜、正臣くんが寝てしまった後。私はうまく寝つけない時、いつもベランダから見える海を眺めていた。
正臣くんと一緒に借りた部屋は海のよく見える物件で、ベランダからの眺めを見て即決したのだ。

ときどきこういうことがある。ふわふわ、とした感覚が何度か襲ってきて、でも眠気とかそんな部類のものを感じない、寝つけない。いろいろなことを考えてしまうのだ。

そして、私はこの眠れない時間の原因がわかっていた。

「……コーヒー、飲もうかな」

ザザン、と波の音が聞こえる。暗い闇がどこまでも広がる海はこのまま私も飲み込んでしまいそうだ。

海からの潮風で浮かぶ髪の毛を耳にかけながら、少しの肌寒さに身を震わせると、温かいものを体が求めている。いつも俺にも入れてください、と言う正臣くんは隣にいなくて、すぐそばの部屋にいるのになんだか寂しくなった。

ベランダの手すりに肘をついて、手のひらに顎をのせる。なんだか明日が来るのが少し嫌で、そう思うのが今だけなのは分かっているんだけれど、でも憂鬱で仕方がない。

ガタリと物音がして、振り向くと目をこする正臣くんが立っていた。

「ごめん、起こしちゃった?」

そう聞くとトイレ、と呟いて逆側のドアに抜けていく。

「コーヒー飲も……」

カラカラ、とベランダの扉を閉めると台所に向かい、粉をがさがさと出していると後ろから重みが加わった。

「寝る前のカフェインはよくないですよ」

さっきより少し目が覚めたような正臣くんの声が落ちてくる。

「寝ないんですか」
「飲んだら寝るから」
「だから」

カフェインはだめ、って言ってるでしょ。とインスタントの瓶を取り上げられてしまった。
いつもの数倍拙い喋り方がまだまだ眠いってことをひしひしと伝えて来るので、申し訳なさが募る。

「寝れないんですか」
「ん、大丈夫だから」
「ほら、よしよししてあげますから」

こっちきてください。振り向かされて正面から抱きしめられる。髪を通っていく正臣くんの指が心地よくて、その胸に顔を押し付けた。

「寝よ」
「……ん」

さきほどまでの憂鬱さはどこへやら。胸に広がるじんわりした温かみを感じながら、手を引かれるまま寝室へ向かう。

2人で布団に潜り込む。ぎゅ、と抱きつくと正臣くんも返してくれて、やっぱり眠いのか力加減がいつもより強い。でも今はそれが心地よくてたまらない。

私はいつまでこの人といられるんだろうかとふと考えた。一緒に住み始めてから幾度となく見せてきたこの情けない姿に、いつか辟易してしまったらどうしよう。ひとりじゃなんにもできない私だったけれど、今ではもう彼なしじゃ生きていけないんじゃないだろうか。

ひとり、という単語にお腹の奥の方へズン、と冷たいものが落ちて来る気がした。


幼い頃、親に捨てられた過去がある。


あの日のことを思い出すと、今でも嫌な汗が背中を伝う。

『ただいま』

と家の扉を開けて、

『おかえり』

の声が聞こえないことがどれほど怖いか、この恐怖は多分一生拭いきれないと思う。

ひとりがどれだけ怖いか、私は孤独をいつも感じていた。


それはご飯を作ってくれるとかじゃなくて。正臣くんは私の立派な精神安定剤で、彼のおかげですべてのバランスがとれて、生活の中心は全部正臣くんで。彼がいるから私はひとりの時間もなんとか正常に過ごせている。

年下の彼にこんなに縋ってしまっていいんだろうか。いつだって包み込んでくれるこのぬくもりがどこかに行ってしまったら、私はどうしたらいいんだろうか。いつか、終わりがきてしまうんじゃないだろうか。

「大丈夫ですよ」

ぽん、と正臣くんの手が頭を撫でる。胸にうずめていた顔を上げるともう寝てしまいそうな彼の顔が見えた。

「七海さん、大丈夫ですよ」
「正臣くん、」
「俺はここにいますから」

ずっとここにいますから、大丈夫、大丈夫、と正臣くんがそっと耳元で紡いだ。きゅ、と心臓が音をたてたような気がした。

「七海さんがいらないって言うまで、ちゃんと居ますから」

最後にそう呟いて、正臣くんは眠りに落ちてしまったようだ。すうすう、と穏やかな寝息が聞こえてくる。
今この空間で起きているのは、私ひとりだけど、不思議と孤独感はなくて、正臣くんの大きな両の腕が温かく包み込んでくれた。

馬鹿だなぁ、私がいらないなんて言うわけないのに。

なんでもかんでも見透かして、私が欲しい言葉をいつだって見つけて教えてくれる。

揺れてしまいそうな涙腺をこらえて、正臣くんの胸に顔を沈めた。上から聞こえる寝息と、いっぱいに広がる正臣くんのにおい。

正臣くんがいらなくなるまで傍にいさせてね。目を閉じて、心の中だけで呟いた。私の居場所は、ちゃんとここにある。

耳を澄ませば遠くから、波の音が聞こえてきた。
カーテンの隙間からは光が溢れてくる。いつの間にか日が昇り始めていたことに気づいて、チラリ、とカーテンの隙間に視線を投げた。

その隙間から覗くのは、真っ黒な闇みたいな海じゃなくて、鮮やかな青に白い波を立てるもので、私を飲み込むものではなく、包み込むもの。


正臣くんの大きく広げられた腕があれば、私はもう大丈夫。





百人一首アンソロジー企画
さくやこのはな提出作品
76、「わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波」

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