※十二国記パロ



暗く、ぬかるんだようなこの場所は絶望を表したかのような場所だと天馬は思った。何せ光は差さないし、明かりも無いのだから辺りが見えない。けれども周囲には無数の気配。まるで息を潜めるようなそれは天馬と同じ人だというのに、時折聞こえる呻き声や啜り声、赤子の鳴き声も。そしてそれを罵倒する男の声がしたかと思えば、生き絶えていく声。この場所にいる人には負の感情以外何もなく、また一筋の光すら射すことのないこの場所に希望なんてものは無いのだ。期待すらしようのない惨状はまさに絶望であると言えよう。天馬は聞こえてきた男の罵詈雑言とそれを必死に謝罪する女の声に耳を塞いでしまいたいと思った。しかし、ここ何週間と物を食べておらぬ身としては腕を持ち上げる力すらない。その証拠に、天馬は既に身体を支えることすら出来ずに身を横たえたまま何をするでもなく、浅い呼吸を繰り返しながら見える筈のない天をただ見ていた。
そろそろ疲れた。最近そんな言葉ばかりが浮かぶ。ここへ逃げた時はいつか友と、父と、母と会うのだと。必ず生き延びるのだと思っていたものだが、虐げられ、自分達の言葉を許されず、泣くことも、嘆くことも、逆らうことすら許されないこの中で、天馬は疲れてしまった。
どうせ食料はもう何週間も前に底をついてしまったのだし、水分だってない。身体に…指先一つにすら力が入らぬのだ。そう思えば、さっさとくたばったほうが楽なのではないかと天馬は考える。けれど、そう思いはするものの死というものが近付けば近付く程やはり生き延びたいと思う自分がいる。
バカだなぁ。枯れた喉から声が出ることはなかったが、天馬はそう口を動かすと頬に生暖かな何かが流れるのを感じた。それを涙と気付くと生暖かなそれは幾つもの滴となって天馬の頬を伝う。涙などとっくに枯れたと思っていたけれど。生きることに意味なんて失ったと思っていたけれど。もう、がりがりに痩せ細った身体になっても尚生きたいと。死に逝くことが辛いのだと知って、けれどもどうにも足掻くことの出来ぬ死に一人涙した。そんな時である。突然天から声がした。けれど、近付く音がしたわけでもない。天馬の周りにはもう死体が殆どである為、共に逃げ込んだ人ではないだろう。ならば幻聴かと思うも、また聞こえる声に天馬は暗闇で見えることはないがそれでも視線を動かして確認しようとする。
「生きたいか?」
三度目に聞こえた声に、天馬は恐らくいるであろう方向へ視線を真っ直ぐ向けると、弱々しくもはっきりと。力の隠った眼差しで応えた。



そこで天馬は目が覚めた。目を開けばじっとりとした暗闇ではなく、豪華に飾られた天井。もう見慣れた筈なのに、何処か落ち着かない雰囲気の装飾に身を起こす。不意に視界に入ったふっくらとして健康的な自らの指先に、ここへ来た当初を思い出した。昔は骨と皮だけであったというのに、今では昔が嘘のような気分である。
指先をもう一方の手で撫でると天馬は自らの身体を纏うのが寝間着であることを特に気にするでもなく、そのままふらりと庭へ足を向けた。
警備が敢えて手薄であり、あの京介でさえ把握していない道を通って海の見える場所へと移動する。ひたひたと素足の足音を立ててひたすら歩く。外は日が沈んだということもありとても静かだ。日が昇ればあんなにも人の生命が溢れているというのに、こう、藍色が空を覆うと殆どが寝静まってしまった為なのか碧色が空一面に広がった時と異なり静かである。まるで、過去のあの場所のようだと一瞬考えが浮かぶも天馬はふるりと首を振るとその考えを消すかのように足を早めた。
すると、近付いてくる潮の香りに目的の場所が近いと知るや否や先程とは違う意味で天馬の足が早まる。少し駆け足で曲がり角を曲がれば、辺り一面に広がる海に小さくだが、歓喜の声を上げて柵の前まで近付いた。ここへ来てもう何十年と経つが未だ空に海があるなどにわかには信じられない話ではあるが、目の前に広がるこの海原はそんな些細な違いなど忘れさせてしまう程綺麗である。まあ、天馬の故郷の方が澄んだ青に珊瑚などが見えて綺麗であったが、この雲海も違う意味で清んでいて天馬を魅了する。
「潜ってみたい、な」
「それは困る」
昔故郷で良く仲間達とした海での遊びを思い出しながらぽつりと呟いた。
勿論、独り言である為返事など端から期待していなかったのだが。図らずしも返ってきた返事に思わずびくりと肩を跳ねさせ、聞き慣れた声に自然と身を竦ませて天馬はゆっくりと振り返った。
振り返った先には波打った暗い灰色の髪を肩ほどまで伸ばし、天馬と違い軽装ではあるが、きちんと身なりを整えた姿で人が立っていた。とはいえ、彼の者は人ではないのだが。
天馬は人物を視界に捕らえるとまるで後ろめたいことでもあるのか悪さが見つかったかのような弱々しい声音で拓人さん、と呟いた。拓人と呼ばれた人物は深く息を吐くと暫し探るかのような視線を天馬へ向ければ何か言葉を発するのではなく、ただ傍まで寄り隣へ並ぶ。そんな拓人の態度に目を見開くも直ぐに嬉しいような。けれどもどこか困ったような表情をすると天馬は拓人と同じく何か言うわけでもなく、再び雲海へと目を向けた。
何をするでもなく潮の香りと時折吹く風を浴びながら互いに並んでただ立っていると、拓人が天馬の耳に届くか届かないかの声で小さく問いかけた。怖い夢でも見たのか、と。
天馬はその言葉に、拓人が敢えて口にしなかった意味を察してか睫毛を僅かに震わせた。しかし、敢えて拓人の問いかけには答えず、代わりに別の言葉を発した。
「海、へ?」
「はい、海へ。地上の海に行きたいんです」
だから連れていってはくれないかとの言葉に拓人は少し戸惑った。恐らく天馬は敢えて言葉にしなかったが護衛を付けず拓人の使令も付けずに行きたいのだろう。いくら昔より国が統治され治安も良くなったと言えどまだまだ改善点はあるし、何より天馬はこの国のただ唯一の人であるのだ。不逞の輩がいないとは限らない中、戦闘に対して無力と言ってよい程の拓人と二人きりというのは心許ないだろう。けれど、それを知らぬ天馬ではない。彼自身この国を治める人物であり、未だ頼りなくもあるが馬鹿ではないのだ。それくらい把握してのことだろう。それに、と天馬の心情を察してしまった為、この細やかな願いを無下にすることは躊躇われた。何せ天馬はこの国の唯一であると同時に拓人自身にとっても様々な意味で唯一なのだ。
──俺は、麒麟として失格だな。
拓人は自身の内でそう自嘲気味に呟くと、少し戸惑いの残る表情で。それでも天馬の願いに頷いた。



「うっ、わぁ」
広がる光景に天馬は歓喜の声を高らかに上げて夜の砂浜を駆けた。その様子に苦笑しながらもこの場所まで運んでくれた虞を撫でながら眺める拓人は多少無理をしてでも願いを叶えて良かったと笑みを浮かべた。
そんな拓人の様子など気付かず、天馬はいつの間に靴を脱いだのか。まだ秋口とはいえど夜の海は冷たい筈だと言うのにその冷たさなど気にならないのか波打ち際でぱしゃりぱしゃりと音を立てて戯れる。とても嬉しいのか、拓人の方へと振り向くと両手を大きく振りながら名前を呼んだ。恐らく拓人も天馬のように海に触れないかといった意味を含んでいるのだろう。些か苦笑を洩らしながらも近寄ると天馬の頭を撫でた。
「本当に好きなんだな」
それに対し元気よく挨拶をすると先程のはしゃぎようはどこへやら。天馬は海の向こうを一瞥すると今度は言葉にした。
「好きです。海は、俺にとって思い入れが深いから。どんな海でも。この国の海も、雲海も、──祖国も」
「てん、ま」
最後に呟かれた言葉に拓人は何を言えば良いのかわからずに言葉を詰まらせた。また、同時にどうしようもない程の罪悪感に襲われた。この国へ。この世界へと連れて来たのは麒麟である拓人だ。例え最終的に天馬が了承したとは言え、それでも天馬の産まれた国から、世界から引き離したのは紛れもなく拓人自身である。
あの時は生か死かの瀬戸際であったから生きたいという本能から頷いただけなのかもしれない。本当は産まれ育った地で一生を終えたかったのかもしれない。今になってはどう思っているかなど拓人にはわからないし、問い掛けたところで変に人の心に敏感な天馬のことだ。答えてくれはしないだろう。拓人はどう声を掛けるべきなのか。不安に揺れる瞳で普段と違い何処と無く表情の読み取れぬ天馬を見つめた。そんな拓人の様子を見てなのか。天馬は普段の明るい笑みを浮かべるが、何故か拓人は安堵するどころか一瞬悲し気な、傷付いたように表情を強張らせると俯いた。
そんな拓人に天馬は困ったとでも言いたげに苦く笑うも、何処と無く嬉しげに表情を崩すと未だ俯いたままの拓人の両の手を包み込むようにして握る。そんな天馬の行動に驚いたのか、拓人は顔を上げて目を見開かせる。そんな様子に天馬は手を離すどころか強く握り締めた。
「拓人さん、俺は此処へ来たことを後悔してません」
天馬は気遣いからそう言葉にしているのだと思われないよう。この言葉が本心であることを伝えるよう真摯な眼差しを、逸らすことなく拓人へと向けながら尚も言葉を続けた。
「そりゃ、大変なことや辛いことだってありますけど、この世界へ…京介や三国さん達。そして何より、」
そこで一度言葉を切ると、天馬は一呼吸置いて、波の音に掻き消されぬよう、きちんと拓人へと届くよう。はっきりとした口調で。けれどもゆっくりと口にした言葉は優しく拓人の耳へと届いた。
「拓人さんに逢うことが出来ましたから」
「天馬…」
恐らく、天馬の言った言葉は事実だろう。しかし、後悔はしてないにしろ、何かしろ未練はある筈だ。天馬が何故海が好きなのか。天馬をこの地へと迎えた拓人の脳裏に碧い碧い澄んだ景色が浮かんだ。と、同時に天馬の何故を否応なしに察してしまうことになった拓人はそれ以上何も言わずに目を閉じた。






埋葬は、あの海へ








(出来ることなら、俺が死ぬ日は海へと葬ってくれたらいいのに)





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