飽くまでも興味の対象


 プリントの束を抱えて、誰もいない教室に静かに入る。自分の席の椅子を引いて、机の上にその束をどさりと落とした。えーっとホッチキスはたしかこの辺に、黒板の近くに置いてある棚をごそごそと漁っていた時に、ふと廊下を歩く足音がして、思わず息を殺す。悪いことをしているわけではないし、むしろ先生の手伝いというすごくいいことをしているのに。それでもなんとなく気配を消そうとしてしまうのは、もはや条件反射だ。

「げっ、まだ人いんのかよ……」

 一応女子の顔を見て「げっ」とはなんだ、と言いたい。でも言えないのは、ふらりと教室に入ってきたその相手が、見るからに恐いなりをしているからだ。

「えーっと、摂津くん何か用?」
「忘れモン」
「そうなんだ」

 忘れ物を取りにきたくらいで、人がいて何がまずいんだろう、なんてまたもや言えない言葉を飲み込む。
 摂津くんはなんというか、所謂不良だ。しかし勉強はできる。授業にあまり出ていないイメージが強かったけれど、最近はよく見かけるようになった。聞いたところによると、劇団かなにかに入って意識改革をしたらしい。その話を聞いた時に、案外摂津くんは素直ないい子なのでは?と思ってしまったくらいだ。
 摂津くんが自分の席の引き出しから忘れ物を取り出している気配を感じながら、わたしは席に戻り目の前のプリントの束に向き合う。とは言っても3枚ずつホッチキスで留めて、それを三つ折りにするという単純な作業なのだが。そういう地味な作業は嫌いではないから、こうやって暇な時に手伝いをしているのだ。

「何やってんだ」
「……えっ、わたし?」
「苗字以外に誰がいんだよ……」

 呆れたように摂津くんがため息をつく。驚いた、わたしの名前知ってたんだ。初めて名前を呼ばれた気がする。苗字だけど。
 ぼうっと摂津くんを見ていたら、ゆっくりとこちらに向かってきた彼がわたしの前の席の椅子を引いた。こちらを向いて座ると、机の上のプリントを手にとって見出しを音読し始める。

「バイト?」
「お金はもらえないよ」
「なあーんだ、つまんねえの」
「でも信頼は得られる」
「へえ」

 淡々とリアクションをする摂津くんは、やはりドラマや漫画に出てくるような不良とは違う気がした。しかし優等生タイプでもないことはたしかだ。
 パチン、と右上を留めて、隣に山を作っていく。その間摂津くんは特に話すこともなくわたしの手元やプリントを眺めたり、たまに携帯を見たりしていた。なんで帰らないんだろう、素朴な疑問は浮かんでは消える。

「飽きねえの」
「飽きない」
「話し相手になってやろうか」
「ええ? いいよ、早く帰りなよ」

 やっと言えた。思わずほっと息を吐いてしまいそうだ。不良だなんだと言われても、彼はクラスの中では目立つ方の生徒で、それは雰囲気もだけど顔がいいせいでもある。そんな摂津くんがすぐそばにいるというだけで、とても緊張してしまうのだ。
 しかし、それでも摂津くんは動く気配がない。楽しそうというわけでもないし、暇つぶしにしたって他のことをした方が有意義なのではないだろうか。それともわたしがなにか面白いことを言うのを期待しているとか? いや、それは彼に限ってないだろう。

「なあ、」
「はい」

 苗字って休みの日なにしてんの、買い物とか行くよ、へえ。部活は?帰宅部、ふうん。彼氏いんの、いない、あっそ。好きなやつは、いないかなあ、へえ。それまだ終わんねえの、まだ、ふうん。
 短いやり取りに何か意味があるんだろうか。淡々と投げられる質問を一応真面目に返したけれど、摂津くんは聞いているのかいないのかよくわからない相槌ばかりだ。だからと言ってそれが気にさわることもなかったから、ぱちんぱちんとホッチキスを止めながら声を聞いていた。

「終わった」
「お、お疲れー」

 とんとん、机の上できれいに端を揃えて紙の束を手に立ち上がると、摂津くんがじっとわたしを見上げている。何か言いたげだ。しかしわたしは表情から言いたいことを汲み取れるほど彼と仲がいいわけではないから、首をかしげる事しかできない。

「今日そのまんま帰んの?」
「うん、そうだけど」
「へえ」
「……、……なに」
「何でもねえ。さっさと行ってこいよ、待ってんだから」

 よく分からないまま送り出されて、廊下の角でふと立ち止まる。待ってる、とはどういうことなんだろう。待たせるようなことをした覚えはないのだけれど。
 それよりもさっきの会話は、なんだかわたしだけが一方的に個人情報を抜き取られたような気がする。しかも彼氏とか好きな人とか、わりと深いところ。彼はそんなことを聞いてどうしたかったんだろう。いくつもの可能性が浮かんでは、よく知りもしない相手を思っては否定した。
 ほんとうに摂津くんが待っていてくれているのなら、わたしも何か聞き出そうかなあ。少しだけ心臓がうるさくなったことに、気付かないふりをした。