講義終了とともにざわめく講堂内。学生が教材をしまい、次々と席を立ち講堂から立ち退く。葉星大学3年、苗字名前もその一人であり、退屈な講義から解放され大学内を歩いていた。
 彼女は大学内の中でも美人で有名だ。容姿端麗で大学内を歩くと誰もが彼女を振り向き魅了される。名前自身もそれは自覚している。自覚したころには常に居心地の悪さを感じていたが、今ではもう慣れたものだ。まわりからの視線も気にせず歩くことができるようになった。
 外見がよく、真面目に講義を聞いている名前は成績も良い。また器用であり割となんでもできる。しかしそんな名前にも苦手なことがある。人見知りであり、慣れ親しんだ人以外の人から声をかけられると思うように話すことができない。まわりからの視線には慣れても、声をかけられることは苦手なのだ。

「君、苗字名前さんだよね」
「…はい」
「あのさ、今度フォトコンテストがあるんだ。よかったらモデルになって欲しいんだけど」
「え…モデル、ですか…」

 突然話したこともない知らない人から声をかけられる。名前に話しかける男は名前の一つ年上の写真部の部員。フォトコンテストへの出場が決まった際、名前にモデルをお願いすることを決めていた。名前の美しい外見は人々を魅了する。故に優勝の可能性が高くなると確信していたからだ。

「いや、でも…」
「絶対優勝できると思うんだ。苗字さん、綺麗だし」
「はぁ…」

 うまく言いくるめられ、モデルを引き受けてしまった名前。


 数日後、大学構内の中庭に呼び出され、撮影が行われる。

「苗字さん、もうちょっと笑ってくれないかな」
「え…こ、こうですか」
「違う違う、笑顔だよ笑顔」
「えっと…」

 名前の笑顔はぎこちない。「笑って」と言われ、口角を上げて自分なりの笑顔を作ってみるも、表情は硬く笑えていない。カメラを構える男は名前の最高の笑顔をカメラに収めるべく笑顔を引き出そうと声をかけるが、思っている表情と違い徐々にいらついてくる。

「苗字さんってさぁ、笑えないの?」
「え?」
「全然笑えてないんだけど」
「…あ…」
「思い返してみれば、苗字さんの笑ってるところって見たことないんだけど。もったいないよなぁ、せっかくいい顔してるのに」
「えっと…」
「ごめん。モデルやっぱいいわ。苗字さんじゃ優勝できそうにないから他の人に頼む」

 構えていたカメラをおろし、去っていく男。顔がいいから選ばれた、そんなのわかっているはずなのに否定されている気がして言葉を失う。
 名前は室内に入りトイレに向かうと、手洗い場にある鏡に自分の姿を映した。誰もいないのことを確認すると、鏡に向かって笑顔を作ってみる。しかしそこに映る自分の顔は引き攣った笑顔だった。



 構内を歩いていると、ふと廊下にある写真部の部員募集とフォトコンテスト開催についてのチラシとともに何枚か展示されている部員による写真が視界に入る。モデルを頼んできた人の写真も展示されていたが、それとは別の写真に目が止まる。
 五人の男性が白いスーツを身に纏い並んでいる。背景は何だろう…向こう側は演劇の舞台だろうか。真ん中の赤い髪をした男の子が振り返り越しにこちらを見て笑っている。何が、とは言えないけれど、名前はこの写真に惹かれ、しばらくその場を動くことが出来ずにいた。

「入部希望の方ですか?」
「え…」

 写真を食い入るように見ていると、突然後ろから声をかけられる。振り返ると背が高く体格の良い男性が立っていた。名前は突然声をかけられたことに驚き後退る。

「あー…すみません、驚かせましたね」
「い、いえ…」
「その写真、何か気になりますか?」
「えっと…なんて言ったらいいのかわからないんですが、すごいいい写真だなって思い、まして…」
「本当ですか!ありがとうございます」
「え?」

 男性は写真を褒められたことに素直に喜び名前にお礼の言葉を述べる。名前は何故お礼の言葉が自分に向けられているのかわからず思わず首を傾げる。

「あ、この写真、俺が撮影したんです」
「え…あ、そうなんですね…。伏見臣さん…?」
「はい」

 写真のタイトルは「The show must go on!」、そこに撮影者の名前も書かれていた。伏見臣。名前が惹かれたこの写真を撮影した人物。

「素敵な写真…」
「………」

 臣から写真へと目線を移し、もう一度写真を堪能する。名前は目を細め、頬が緩み、自然と笑みを溢していた。そんな名前の表情を見た臣は、言葉を飲み込んだ。名前が写真に惹かれたように、臣は名前の表情に惹かれていた。

「あの、苗字名前さんですよね…?」
「は、はい…あの、なんで…」
「いや、美人で有名なので…」
「あぁ…」

 名前にとってはあまり嬉しくない覚えられ方だ。こうやって覚えられているとろくなことがない。そう思っている名前は、今すぐにでもこの場から逃げたい気分になると思っていたのだが、不思議と臣といても嫌な気持ちにならなかった。

「苗字さんってやっぱりモデルで声かけられること、多いですか?」
「あー、まぁ、そうですね…」
「そうですよね…」
「それが何か…?」
「いや、もしよかったらなんですけど、俺も苗字さんをモデルに撮ってみたいな、なんて思いまして…」
「…はぁ…」
「嫌ならいいんです!」

 恐縮するように、臣は名前にモデルを頼み込む。無理強いはしたくないため、名前が快く引き受けてくれること願うのだが、名前自身、このようにモデルを頼まれることが何度あったことか。引き受ける度に期待外れだと言われ、トラウマともなってきている。

「なんで、わたしなんですか?」

 こんな素敵な写真を撮る人だから、自分を撮ってもらうことに申し訳なさを感じる。それに、なんだか写真を撮られるときの引き攣った笑顔を見せたくないと名前は思う。

「なんで…かな。この写真を見てた時の自然な表情が綺麗だなと思って」
「…わたしの、ですか…」
「あぁ…なんか、すみません」

 表情が綺麗だと言われたことはなかった。綺麗だと言われても、ただ整った顔が綺麗だと言われるくらいだ。単純に、嬉しかった。そして単純に、この人になら撮ってもらいたいと思った。

「あの、わたしなんかでよかったら…」
「え、いいんですか…?」
「よ、よろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ。ありがとうございます」

 そうと決まれば、と話を進めていく臣。本日受講する講義がお互いにもうないことを確認すると、大学を出て近くのカフェへと入る。まずは自己紹介を改めて、そしてお互いのことを知ろうと提案する臣に、名前は驚く。いつもなら、そんな段階を踏まずに撮影に入るから。臣が劇団に入っていることを話すと、見かけによらないなぁと思いながらも、生き生きと話している姿に名前もなんだか楽しくなり、自分からも質問してみたり話を弾ませていた。時折見せる名前の笑顔に、臣ははやく撮りないなと思うばかりだった。



 数日後の午後。講義の合間でお互いの一枠が空いている時間に臣に中庭に呼び出された名前。写真撮影だろうか。そうだったら何の準備もしていないと内心焦る。中庭のベンチで臣は待っており、名前が近づいていくと、隣に座るよう促される。

「アップルパイを作ってきたんだ」
「え?」
「こないだ話したとき、アップルパイが好きだって言ってただろ?」
「あ…うん」

 カフェで話したとき、同じ学年であることがわかると、敬語なしで話そうということになった。そしてその時の会話の中で名前がアップルパイが好きであることがわかり、臣は作ってきたというのだ。料理が得意であることは話にも聞いたが、まさか作って来てくれるとは思わず言葉に詰まった名前。見た目も美味しそうで、口に入れるとサクサクの食感のパイから煮込んだアップルの甘みとシナモンの香りが身体に流れ込んでくる感覚。

「美味しい…」
「お。よかった。団員にも評判だったんだ」
「うん。とても美味しい!」
「…」

 好物である上に美味しいといったこの上ない幸せを感じながら黙々とアップルパイを食べる名前の表情に、臣は思わずカメラを構え、シャッターを切る。

「ん…?え、い、今の…」
「あ、悪い、つい…」
「い、いえ…」

 無意識だった。撮りたい衝動が思考よりも先に身体を動かしていたのだ。シャッターを切る音に名前は食べるのを止め、カメラを構える臣を見る。撮られていたことがわかると、急に恥ずかしくなった。食べているところを撮られるなんて、無防備なところを曝け出しているようなものだ。

「食べてるところ邪魔しちゃったな。もう撮らないから」
「…ほんとに?」
「ほんと」
「………」
「ほら、カメラも置くから、な?」

 臣がカメラを手から放したことを確認すると、再びアップルパイを食べる。美人で有名という噂とともに、一人でいることが多くあまり人と話しているところや笑った顔を見ないという話も小耳にはさんでいた。それでも人間、関わってみないとわからないこともある。好物を口にして美味しそうに幸せそうな表情をする名前を見て臣は綺麗というよりも、可愛いなと思っていた。

「美味しかった。ありがとう、伏見くん」
「ん、お粗末さまでした」
「さっきの写真、消してね」
「んー。どうしようかな」
「え…!消してよ…っね?」
「ははっ考えておくよ」
「…伏見くんって結構いじわる…?」
「どうだろうな」
「もう…!」

 こんな風に話をすることなんでないと思っていた。からかわれながらも、臣と一緒の時間を過ごす心地よさを感じる。臣は名前の反応を見て意外とからかい甲斐があるんだなと新たな一面を知り、もっと名前の魅力を引き出したいなと密かに思っていたのだった。





「ねぇ、本当にこれ着るの…?」
「俺がイメージしたのを団員が作ってくれたんだ。着てくれたら嬉しいんだが…」

 臣に呼び出されて渡された紙袋に入っていたのは、淡いラベンダー色ベースの上半身は無地、スカートの裾付近に大きめの花柄がデザインされているシンプルなワンピース。どちらかというと綺麗な部類の名前には大人っぽいシンプルなデザインでもいいと思ったが、可愛らしい一面を見たのをいいことに、女の子っぽい花柄を取り入れたいと思った結果、このワンピースとなった。

「着る…けど、笑わないでよね…」

 臣から紙袋を受け取り、構内のトイレで着替える。女子には有難いことに、全身鏡が備えられており、着替え終わった際に鏡に全身を映してみる。普段スカートなんて履かない上に、花柄の服なんて持っていない。ご丁寧にハイヒールのベージュ色のパンプスまで入っている。着なれないワンピースを身に纏いながらトイレを出ていくと、そこには臣がいて「おぉ…」と感心し微笑む。そしてぎこちなく近づいてくる名前に、少し苦笑いする。

「もっと普通に歩けないのか」
「だってなんか…」

 着なれないというのもあるが、まわりの視線が気になっていた。視線を集めることには慣れているのだが、普段とは違った珍しいものを見るような視線に居心地の悪さを感じていた。そんな名前の心情を汲み取ったのか、臣は名前の腕をとり、その場から離れる。たどり着いた先は以前も来た中庭。意外と人通りは少なく、視線もあまり感じない。

「よし。ここでいいか」
「え?」
「撮影」
「…え…」

 さすがに撮影の準備はしていなかった名前。何故ワンピースを持ってきて着替えさせたのか疑問に思っていたが、撮影をすると聞いて納得した。

「あ、そうだ。アップルパイ焼いてきたんだ。前と少し味を変えてみた」
「…食べる」
「ん。撮影のあとにな」
「…うぅ…」

 アップルパイに吊られるとは不本意だ。でも、撮影のモデルに頼まれたとはいえ、協力することに肯いたのは名前だ。それに、もう何度か会って話もする仲だ。臣なら大丈夫、そう思い心の中で意気込んだ。

「じゃあ、そこの木のところに行って…」

 場所やポージングを指定され、なんとか撮影に持ち込む状態になったが、最後に「笑って」という指示に笑顔を作るとやっぱり引き攣ってしまう。

「えっと…」
「…待って、笑うから…」

 引き攣った笑顔をどう解したらいいのか必死に考えるが、うまくいかない。今までもずっとそれでカメラマンを困らせていた。今回も、少し親しみが出てきた臣だったら大丈夫だと思っていたのに、引き攣る笑顔は変わらなかった。それでも手で頬をマッサージしたり口角を上げたりしてなんとか自然な笑顔が生み出せるようにしてみる。臣に、引き攣った笑顔を見せたくないと思った。

「苗字さん、一旦休憩しようか」
「え…」

 構えていたカメラが下ろされる。今までなら「またか」と思う程度だったのに、今回は「嫌だ」と思い、恐怖が襲った。呆れられて「もういい」と言われ臣が離れていってしまうのではないか。

「あの、撮影、やめないで…大丈夫だから…」
「でも…」
「お願い…頑張るから…っ」
「え、苗字さん…?」

 臣は驚いた。名前が涙を流していたから。一旦休憩して、慣れてくるのを待とうと思っていたのに、「やめないで」と泣きながら引き止められ驚いてしまう。

「わたし…ダメなの。いつもモデルに頼まれても、全然思うように笑えなくって…もういいって言われて…わたしっ」

 泣きながら今までの経験を臣に話すと、そうだったのかと納得する。そういえば、苗字さんにモデルをしてもらったと写真部の面々が言っていたことを聞いたことがあったが実際に写真を見たことはなかった。それも、これが原因だったのか。

「大丈夫、もういいなんて言わないよ。だから、一回休憩しよう」
「…でも、」
「まぁとりあえず、アップルパイ食べるか?」
「撮影が終わってない…」
「いらないなら俺が食う」
「…いる」
「ははっ」

 ベンチに座り、持ってきたアップルパイを出す臣。今日ははちみつアップルパイだと言うと名前は目を輝かせて頬張る。先程まで泣いていたのが嘘かのように表情を明るくしていた。

「苗字さんはいざ撮影ってなると緊張しちゃうタイプなのかもな」
「…そう、なのかな?」
「だって今、すごくいい笑顔してる」
「えっ」
「好きなものを食べているっていうのもあるのかもしれないけど、そうじゃなくても話をしているとき時々すごくいい笑顔をしてるんだよ」
「………」
「そんな笑顔が、俺は好き」
「あ…」

 率直に名前の目を見て言う臣に、名前は時が止まったような感覚に陥った。臣の言葉がすっと胸に入ってきて、まるで魔法の言葉のようだった。

「……伏見くん」
「ん?」
「撮影、しよう」
「え、でも…」
「なんか、大丈夫な気がしてきた」

 カメラの向こうに臣がいる、そう思ったら緊張も解れるような気がした。名前は食べかけのアップルパイを置き、先程立っていた木の下へと移動する。揺れるワンピースとセミロングの髪。臣に背を向けたまま深呼吸をし、振り返る。その時、名前はもう綺麗な顔で笑っていた。臣は思わず見とれてしまう。

「伏見くん?」
「あ、あぁ…」

 臣は慌ててカメラを手にし、構える。カメラの向こうには穏やかな表情をした名前が立っていた。時折風が吹いて自分の髪が顔にかかるとくすぐったそうに目を細めて笑う名前。臣は名前と会話を弾ませながらシャッターを切っていく。撮影とはまったく関係ない日常会話をしながら撮影を進めていく。時折からかうとむすっとした表情をしつつも臣が笑うと名前も笑う。

「お、いい笑顔」
「ほんと?」
「ん。さっきと全然違う」
「ふふ。なんだか伏見くんの魔法にかかったみたい」
「可愛いこと言うんだな」
「え、そ、そうかな…」
「そんな表情も可愛い」
「からかわないで」
「ははっ悪い悪い」
「ふはっ」

 魔法にかかったかのように様々な表情を見せる名前。名前の魅力に惹かれ、次々とシャッターを切っていく。もっと名前のいろんな表情をカメラ越しじゃなくて直接自分の目に映したいと思いながら。

 相手が臣だからこそ引き出される名前の笑顔。臣はフォトコンテストに厳選した一枚を提出し、優勝を飾ったのだった。


─さあ、魔法をかけて─


 その後の二人がどうなったのか。それはあなたの想像にお任せします。



さあ、魔法をかけて