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金曜日の講義が終わった日は毎週の如く、まるで別の世界が拓けたような気分だった。児童でも、生徒でも、学生でも変わらない。土日の嬉しさだ。講義室を飛び出したわたしは、軽くスキップをしながら、階段へと向かう。すると、反対側から歩いてくる臣くんの姿が目に入った。すぐにスキップを止めて、人の邪魔にならないように端に寄ったわたしは彼がやって来るのを待つ。風を受けて乱れた髪の毛を整えて、スマホケースに付けてある鏡を覗いて顔を確認して。隣に立つ気配を感じたわたしは勢いよく顔を上げる。臣くんはとても背の高くて、ガタイの良い男の人だ。



「名前」
「臣くんも今終わったところなの?」
「ああ。お疲れさま」



身体が大きくて、少し強面に見えるかもしれないけれど、パッと見の外見と逆で、臣くんはとても優しい顔つきで、柔らかい喋り方をする。近づくことがなければ、分からなかったかもしれない。階段を下りていく人混みに紛れたわたしたちは、講義の内容をお互いに話す。そういえば、と臣くんから最近の劇団の話が出てきた。わたしは臣くんの所属している劇団の人とは一人を除いて会ったことがないけれど、彼が事細かに話してくれることもあって、名前を聞けばなんとなくどんな人かは想像できていた。同じ大学にいる綴くんだけは会ったことがある。脚本を担当しているという綴くんに、彼女と紹介されて照れてしまったことは記憶に新しい。
臣くんは週末に時間を空けてくれる。勉強に、劇団の練習や料理、それに手芸、カメラ、と時間が必要なはずであるのに律儀なのだ。大学で顔を合わせることは多いけれど、休日にわたしを誘ってくれる。どこかお兄ちゃんのような雰囲気を持った臣くんには、本当に頭が上がらない。友達から彼氏の愚痴を聞かされることがあったとしても、わたしが臣くんについて愚痴を零したことはない。むしろ、愚痴を言われるのはわたしの方だと思っている。そのくらいには、彼は完璧な人だった。世界中探し回っても、なかなかこんな人は見つからないと思う。
階段を下りきって、外へと出ると講義と講義の間の時間だからか、階段以上に人が溢れていた。息をゆっくり吐いていれば、不意にわたしの手首を誰かが掴む。この大きな手は臣くんだ、と思って彼の方を見ると、悪い、驚かせたかと呟いた。大丈夫の意を込めて、首を横に振れば、臣くんはいつの間にかわたしの手から荷物を奪っているではないか。そんなに重くない物だというのに、彼は持つのが当たり前とばかりに颯爽と熟す。小さな鞄だけを肩から掛けたわたしは、臣くんの腰辺りを指でつつく。いつも、ずるいなあ。心の中で呟いただけだから、臣くんは不思議そうに首を傾げたあと、口元を緩めてわたしを見つめ返してきた。



「どうかしたか?」
「ううん。なんでもない」
「名前はなんでもないのに、俺をつつくのか?」
「じゃあ、秘密」
「あ!逃げたな、ずるいぞー」



わたしの頭にポンと触れた臣くんは、大学の入り口に向かって歩いていく。こういうさりげないところをずるいって思っていること、きっと気づいていないんだろうなあ。わたしなんて、ひとつもずるいところないのに。
自然に隣を歩けているのも、臣くんが歩幅やスピードを考えてくれているからだし、わたしが車道側を歩いていないのも、彼が逸早く車道側を歩くからだ。細かい部分までに気を遣ってくれる上に、臣くんの時間もちゃんと貰っているわたしはなんて贅沢な女なのだろう。お金持ちのお嬢様しかお姫様扱いされないと思っていたけれど、全くそんなことはない。臣くんといると、ティアラを付けて全身ドレスで包まれているような気さえしてくる。これ以上、臣くんに何も望むものなんてないのだ。むしろ、わたしが彼に何をしてあげられるのか、何を返すことができるのかを知りたいくらい。



「そうだ。明日か明後日どこか時間空いてないか?」
「待ってね。スケジュール帳確認するから」
「じゃあ、そこの公園のベンチで少しゆっくりしようか」
「うん」



ベンチに腰掛けたわたしは膝の上で鞄を開くと、付箋がはみ出しているスケジュール帳を手に取った。今月のページを探して捲っていると、横から臣くんが覗いてくるものだから思わず、彼から距離を取った。だって、あまりにも顔が近い。ははは、と笑い声が聞こえてくる。さては、臣くん確信犯だな。
今月のページを開いて、土日の確認をする。別に確認しなくても、今週末の予定がないことは分かっていたけれど、せっかく臣くんと会ったのだからちょっとでも引き留めたくて、スケジュール帳を確認させてと言ったのだ。あの場所でそう言えば、絶対に臣くんは公園のベンチへ誘導してくれると思ったから。引き留めるための言葉を自分から発するのが恥ずかしくて、臣くんがそう言うように仕向けちゃっているわけだけど。



「どっちも空いてるよ!」
「そうか。じゃあ、明日の……」



スマホとスケジュール帳を見比べながら、予定を考えているであろう臣くんの横顔を眺める。劇団の練習も大変だから、毎週時間を作らなくても大丈夫だよ。そう言ったら、臣くんはどう思うだろうか。愛想を尽かしたように聞こえちゃうのかな。それとも、身体を休めたかったから助かるよ、なんて思うのだろうか。わたしは臣くんの心なんて読めない。どんなに疲れていても、彼は顔に出さないようにしていることだけは分かっているつもりだけれど。



「臣くん」
「うん?」
「劇団の練習大変でしょ?」
「ああ、まあな。でも楽しいから」
「……あの、たまには土日ゆっくりしたらどうかな。劇団の練習の合間、わたしと会わずに身体を休めることも大事だよ!いつも会ってくれて嬉しいけど、わたしは大丈夫だから、ね!」
「名前……」
「あ、あのね、会いたくないとか、そういうことじゃないからね!誤解しないでね!」



葉っぱの擦れる音がわたしたちの間を流れていく。公園で遊んでいた子どもたちが一斉に帰り出したのは、時計が夕方5時を過ぎたことを知らせているからだ。隣に座った臣くんは、自分の手に持っていた物を鞄に詰め込み始めた。納得してくれたのかな。今週の土日はわたしと会わないことにしたのかな。彼の真似をするように、わたしもペンやスケジュール帳を小さな鞄に詰め込んだ。臣くんが持ってくれていた鞄は、彼の向こう側に置かれている。それに手を伸ばせば、その腕を掴まれて、大きな身体にすっぽりとあっという間に包まれてしまう。少し肌寒いこの時間に備えて、臣くんは薄目の上着を身に付けていたけれど、わたしの身体はその上着よりも臣くんに近かった。ぴったりくっつくのは、初めてではないけれど、やっぱりまだドキドキして、緊張する。血縁の人や、同性の人と抱き合うのとはワケが違うのだから。
何も言わない臣くんはわたしを放してくれない。背中に回った腕の力は緩められることがなく、しっかりと捕まえられていた。子どもたちが帰ってしまって、閑散としている公園で本当に良かった。人目があると、気になって仕方ないから。
カラスの大きな鳴き声が遠くで聞こえる。人間が見ていなくても、鳥が見ているぞと言わんばかりだ。公園の外には車の通る道がすぐにあるからか、車の行き交う音も聞こえる。少しして、低い唸り声が聞こえる。まるで、臣くんが大きな熊になったかのようだった。



「いきなり、ごめん。今度こそ驚かせたよな」
「……うん、今回は、びっくりしたかな」
「名前が大丈夫って言うから、ちょっと焦った」
「え?」
「名前が大丈夫でも、俺は大丈夫じゃない、かな。疲れを吹っ飛ばしてくれるのは休息ももちろんだけど、名前と会えるのも俺の中ではそうなんだ。俺の前で、名前が笑ってくれるのが一番。だから、会いたくないって思ってないなら、俺と会って欲しい」



でも俺なんかが傍にいたら、と聞こえたような気がする。続きは臣くんにしてはあまりにも小さな声で拾えなかった。身体をそっと離した臣くんと目が合ったと思えば、次の瞬間には顔が近づいていて、勢いに押されたわたしは目を閉じる。会いたくない、なんてわたしは微塵も思っていない。臣くんが会いたいように、わたしだって会いたい。わたしはどうやら臣くんと会うことで、彼に元気を返せているらしい。そのことが分かって嬉しかった。
自分の物ではないものが触れる。それを心地良いと感じることができるのは、相手が伏見臣という人だからだろう。今日はいつもに比べて口紅が濃いから、臣くんのくちびるを少しばかり色付けてしまうかもしれないけれど、許してね。週末、わたしがいつも笑えるように、これからもそばにいてね。