/ / /


「『勝つ望みがある時ばかり、戦うのとは訳が違うぞ!』」

お夕飯の買い物を終えてレジ袋を両手に持って帰り道を歩いていたときだった。なんだか聞き覚えのあるまっすぐで、とても透き通った声。それにこれって。誰だろうと思いあたりを見渡すと、見つけた。……たしか。あれは。同じクラスの佐久間くんだ。

「……『そうとも。負けると知って戦うのが遥かに美しいのだ』」
「えっ?」

つい。セリフの続きを口走ってしまった。彼のように演じて言葉を吐いたわけではなかったのに、佐久間くんは大きい瞳をこれでもかと見開いてわたしのほうに振り向いた。

「佐久間くんの演技、すごいね」

驚いた表情。素直な感想を述べたのだけれど、あまりに唐突だったからか、驚かせてしまったようだ。居た堪れなくなって両手は荷物で塞がっていたので、心の中で盛大な拍手を送りながら近づくと、佐久間くんが顔を綻ばせた。

「苗字さん、エドモン・ロスタン知ってるの?」
「だって、有名じゃない。シラノ・ド・ベルジュラックなんて特に。この辺の図書館じゃ戯曲の本ばっかりあるし、普通よ」

笑顔を満開に咲かせた佐久間くん。今更ながら恥ずかしくなってきてすこし突き放したような態度を取ったのに、物ともせずキラキラした瞳で話しかけてくる。

「そういえば苗字さん本読むの好きだったよね」

たしかに本は好きだ。本は、物語は、わたしをいろいろな場所に連れてってくれて、たくさんのことを教えてくれる。わたしの世界をどんどん広げてくれるもの、それが本だった。

彼がよく図書館に通っていることは知っていた。戯曲ばかり借りて読んでいることも。本棚の間でお目当を探している姿を何度も見つけたことはあったけど、佐久間くんはいつも戯曲やお芝居関係のコーナーにいる。そこで、教室の中にいるだけじゃ見ることがなかった表情を何個も知った。クラスメイトの意外な一面に、物語のなかにいる夢見る少女のように心を躍らせた。

「じゃあ、シェイクスピアとか?」
「ん〜と、それなら。……『嫌えば嫌うほど、追いかけてくるの』」
「『好きになれば……好きになるほど、嫌われるの』」
「やっぱり。夏の夜の夢、佐久間くんも知ってたんだね」
「この間読みたくなってまた読んじゃったんだ。まさかハーミアのセリフを選ぶなんて!苗字さんとだったら何時間でも話せそう!」

だからだろうか。ただのクラスメイトだった佐久間くんの読んでいるものが気になって、本の背表紙の裏ポケットに入っている貸し出しカードを確認したこともある。佐久間咲也の名前があると、なんだかそれだけで本が特別に思えた。わたしはたしかに、佐久間くんに特別な感情を抱き始めていたんだとおもう。

「佐久間くんがお芝居好きな気持ち、わかるよ。わたしが本を好む理由も、あなたと同じだから」

佐久間くんは親戚の家に預けられていたが、今は所属している劇団の寮に住んでいると言っていた。毎朝後輩の碓氷くんと仲良く登校してくる姿はもはや花学の名物である。みんなが今にも眠ってしまいそうな碓氷くんをうっとり眺めている中、わたしは必死に碓氷くんを遅刻させないよう急かす佐久間くんの姿を見てきた。

人がよさそうなのは見た目だけじゃない。ノートをたくさん持っていく女子を見かけたら率先して手伝うし、みんなが嫌がるゴミ捨てや当番も笑顔でこなすのだ。誰かの役に立ちたい。みんなの笑顔が見たい。そうやって佐久間くんは生きてきた。

「……オレたち、会うべきして出会ったんだ」

なんだか、セリフみたいだった。

彼は、舞台の上じゃなくても、役者として輝けるんだ。

対して、わたしは。弟妹の面倒に追われて、学校よりも家事を優先しなくちゃいけないことが多かった。両親は健在だが、どちらも子どもの相手があまり好きではなくむしろ仕事が好きで、家に帰ってくることのほうが少ない。自分の好きなことに時間を使いたくてもできないから、楽しそうな佐久間くんが羨ましかった。わたしにとって佐久間くんは特別だ。好きなことができて毎日幸せそうにしている佐久間くんが、わたしにはまぶしい。

「今日は付き合ってくれてありがとう」

だからこうして、眺める日常のなかでたまに佐久間くんと話をすることができた日は、昨日と同じような一日でも今日が特別になる。これからそうやって、特別を重ねていけたらきっと、戯曲のように、はたまた本のなかの物語のように美しい日々になっていく。それがわたしの日常になれば、どんなに幸せなんだろう。

「またオレの練習に付き合ってね、苗字さん!」

美しい笑顔に魅せられて、なんだか涙がこぼれた。わたしを、その他大勢のクラスメイトではなく、一人の友人と接してくれる佐久間くん。だからわたしは友人として、一ファンとして彼を応援していきたい。いけたら、いいな。

「佐久間くん、また明日ね」


170511
※エドモン・ロスタン「シラノ・ド・ベルジュラック」翻訳を一部引用
※シェイクスピア「夏の夜の夢」翻訳を一部引用