恋心─正編─
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「正はん、上手な女の口説き方を知らんでっしゃろ」
「……ふん、そんなもの私には必要ない」
ここに来たのが間違いだった。
誰かに誘われたわけでもなかったが、最近釈然としない霧のようなものが胸を覆っていた為か、どこかで気張らそうと思いこの飲み屋に来た。
しかし、入ったはいいが、たちの悪い女店主に捕まり根掘り葉掘り聞かれるはめになっていた。
「その霧の原因は分かってはるんやろ?」
「ああ」
「で、分かっているけど認められへん、っちゅうわけやね?」
「……ああ」
この年になって子供のようなこんな感情を持つとは思いもよらなかった。
クルクル変わるあの表情を思い出すと、どうしても甘酸っぱい感情が顔を出してくるのだ。
「あれやね。相手が年の離れた女の子なんやろ?なら、押して押して押しまくれっ!」
「……さっきは、上手な口説き方がなんとか言ってなかったか?」
「あら?そんな言ったかいな?……まぁ、ウブな女の子ならヘタな駆け引きよりそのほうが単純解明でええんちゃう?……まぁ、正はんが出来たらのはなしやけどね?」
気持ちを紛らわそうと入った店で、こんなにも思い知らされるとは何とも間抜けだ。
さっきまで否定し続けていたというのに、いつの間にか素直に恋愛指南を受けているではないか。
いい年した大人が。
「…………帰らせてもらう」
「もう帰るん?……あ、さっそく実践してみるんやなぁ?」
そう言ってニヤニヤと笑う女店主に代金を支払い、足早に店をでた。
***
「あ、正様!お帰りなさいませっ!」
「なんだ、待っていたのか?」
出迎えてくるとは思っていなかったせいか、らしくもなく動揺する。
親を見つけた小動物のように駆けてくる姿に思わず表情を堅くした。
「はい!実は、茂様と進様も外出していまして、帰りをお待ちしております!」
「……私はついで……か」
「いっ……いえっ!正様もお待ちしておりました!」
ポツリとこぼした言葉だったが聞こえたらしく、慌てて首を振った。
馬鹿らしい。
この自分と一回り以上も年の違う少女、ましてや使用人だ。そんな少女に一喜一憂している自分が可笑しくて仕方がない。
「あの……どうかしましたか?」
訝しげにではなく純粋に心配を宿した瞳が向けられる。
年の離れた少女だからだとか使用人だからだとか、そういった理屈なんてものは何の役にも立たない。
純粋なこの少女の瞳と思いが、自分の擦れた心に溶け込んだのだろう。
「……明日、銀座へ出掛けるのだが……ついてくるか?」
「えっ!あ、あの、いいのでしょうか!?」
見開かれた瞳は好奇心に輝いていた。
「いいから、誘っているのだろう?」
そう言えば、感謝の言葉と共に無邪気な笑みが返ってくる。
こういうのも、悪くはない。
***
「わぁ!あ、あの!正様っ!あの大きな建物は何なのでしょうか!?」
隣で私の袖口を掴む使用人はその使用人らしからぬ行為に気がついていないのか、騒がしくはしゃいでいる。
「あれは、先月開館した博物館だ……それより、目立っているのが分からんのか?」
「へ?あっ!やだっ……私ったら……。た、正様、申し訳ありません!」
そう言ったかと思うとさっきまでの騒ぎようはどこへいったのか、俯いて黙ってしまう。
その姿がまるで怒られたばかりの子供のようで、思わず笑ってしまった。
「……あ、正様も笑うんですね」
「当たり前だろう……お前は私を何だと思っているんだ?」
大きく丸い瞳をそれ以上に丸くして私を見つめた後、使用人としてではなく年相応の少女としてふわりと優しく笑った。
「やっぱり正様は優しいですね!」
迷いなく言われたその言葉を都合良く──本音と受けとっていいものだろうか。そんな馬鹿らしく、青臭い考えがよぎり苦笑する。
「……そんなことを言うのは、この世でお前くらいだろうな」
柄にもない言動も、年不相応な思考も、この少女にしか引き出せない。それが意味する答えは嫌でも理解している。
けれど無駄にとった年は、人を素直さから遠ざけるのだ。
「はる」
「……へ?今……はるって……」
目を見開き、私の顔を凝視する少女を鼻で笑う。
「なにを驚いている?『はる』はお前の名前だろうが」
「だだだって……正様が……私の名前を……」
あたふたと慌てながらも嬉しそうに頬を染める姿に心が満たされる感覚を知った。
名前ひとつでこの少女を喜ばせることができるならば、素直さなど必要ない。
馬鹿らしく不器用な想いが伝わることがなかったとしても、この満たされる感覚を知れた。
この年でまともに恋をしてしまった報なのだろう。
それで充分だと、そう思ってしまうのだ。
「……せいぜい頑張ることだな……はる」
願うは彼女に幸あることを