小さな恋 | ナノ


沢山のメロディーに溢れた生活。

それは、楽しみと希望に満ちた毎日。


☆☆☆


作曲家としての第一歩を踏み出した私は、沢山入る仕事に忙しさを感じつつも充実した生活をおくっていた。
それは、皆も一緒で、仕事場でたまに会うことはあっても、プライベートで会うことが中々ない。

そんなある日。

「よっ!七海!」

楽譜の束に悪戦苦闘していると、久々に聞く翔くんの声が私を呼んだ。
その声に飛び上がるように反応した私は、楽譜を全て床に落とし、翔くんへと振り返る。

「翔くん!お久しぶりです」

パラパラと散らばる楽譜を翔くんは一瞥したが、直ぐに視線は私へと向けられ「……七海も相変わらずだな」と苦笑いする。

「最近仕事はどうだ?」

「忙しいですけど……凄くやりがいがあって……楽しいです」

私がずっと感じていた充実感を伝えようと、そう言えば、翔くんの顔が暗くなった。
何か、マズいことを言ってしまったのかと思い、謝ろうとしたら

「……俺……アイドル止めようかと思ってるんだ」

予想だにしなかった言葉が翔くんの口から放たれた。


☆☆☆


「えっ……」

驚きで目を見開く七海は、あの時と変わらず一心に仕事と向き合っていた。
その姿を見ると勇気が湧いていたのに、今は眩しくて仕方がない。

この仕事が大事なはずだったのに、今の優先順位には仕事より勝るものがある。

「春歌……」

「えっ……あ……あの……何でしょうか?」

たぶん俺が暗い顔をしているせいか、七海は心配そうに何を言おうか迷っている。

“何かを得るときは、何かを手放さなければいけない”

そう言われた時の衝撃は、今でも覚えている。

そして、その時、俺の頭に浮かんだのは、華やかな舞台にいる自分ではなく、目の前にいる“七海 春歌”だった。

「……翔くん?」

「…………話がある」

混沌とする頭の中に蓋をして、七海の細い手を握り、引っ張っていった。


☆☆☆


「あのっ……翔くん……」

大きくて、ごつごつした手に引っ張られながら、薄暗い空の下に来た私と翔くん。
一本の大きな木以外、なにもない広々としたこの場所は、冷たい風が遠慮なく私達にぶつかってくる。

「……七海…………俺がお前を選んだら……お前も俺を選んでくれるか?」

強い風と共に私へと届いたその言葉は、驚きよりも呆然としてしまうもので、何かを言おうにも考えがついてこない。

そんな私に、翔くんは苦笑いして「ごめん」と謝った。

「……忘れてくれ」

本当に忘れていいのだろうか?
翔くんの表情を見て、その思いは強くなる。

こんな表情を初めて見た気がした。
いつも、明るくて元気で、男気があって……そんな翔くんが、今、浮かべている表情は、頼りなさげで苦しそうだ。

「……忘れません……だって……翔くん…………辛そうです」

「……そんなこと…………ねぇよ」

苦しそうに笑う翔くんに、私の視界がぼやけていく。

どうして、この人は一人で何でも背負うのだろう。
私では、力になれないのだろうか?

「…………ごめん……春歌」

たまに呼ばれる下の名前に、私はいつもドキドキしていた。
けれど、今呼ばれた、それは、別れの挨拶のようで胸が締め付けられる。

「……翔くん…………私じゃ力になれませんか?」

「…………ごめん」

小さく呟かれた謝罪は、私の胸に重くのしかかっていった。


☆☆☆


「もっと気持ちを込めてもらわないとなぁ……やる気あるのか?」

「……すみません」

俺は、何をしているのだ。

どちらも選ぶことが出来ない俺は、中途半端で行き場を無くす。

あれから七海と会うことはなく、俺は仕事に追われる毎日だ。
しかし、その仕事に身が入らない。

ドラマに歌番組、バラエティーにレコーディング、様々なことが目まぐるしく進行していくなかで、俺だけが取り残された気分になる。

「……聞いてるのか?」

「えっ……」

ぼぅっとしていたのか全く話が頭に入ってこず、そう聞かれてやっと気づいた。

苛立ちを隠せないプロデューサーは、眉間に皺を寄せて、俺を睨んでいる。

「いっかい、頭冷やしてこいっ!」

「……すみません」

謝ることしか出来ない俺は、その場から立ち去った。




──



静かな楽屋でひとり、昔の写真を眺める。
昔といっても、数年前だが、今の自分には遠い昔に感じられた。

全員が楽しそうに笑っている。
そこには俺もいて、その隣は七海がいた。

当たり前だと思っていたのだ。
いつでも、自分が思ったことを実現させていくことが日常で、それに立ち向かうことが勇気だと。

けれど、現実はそう甘くなかった。

思っていることよりもはるかに大きな壁が目の前に立ちふさがり、越えることを許さない。
どれだけ希望を持っても、どれだけ努力をしても、その壁を越えてはいけないのだ。

手に持った写真を裏向けて机に置けば、やり場のない苦しみが溢れ出る。

「来栖くん?居ますか?」

ノックと共に聞こえた声に返事をすると、アシスタントのひとりが楽屋に入ってきた。

「……あの、これ……さっき可愛らしい女性が来栖くんにと」

そう言って差し出されたのは、A4サイズの封筒だった。
何か分からないまま受け取ると、アシスタントはそそくさと出て行く。

「……何だ?」

封筒と封を切り、中を確認する。

すると、そこには、楽譜が入っていた。

「…………喜びのメロディー」

小さく書かれたその文字には見覚えがある。
クセの少ない真っ直ぐな字は、彼女そのものだ。

♪〜

メロディーラインを口ずさむと、沈んでいた何かが浮き上がってくる。
胸に湧き上がる強いものが、全身を駆け抜けて、全てを喜びに変えた。

その曲には、難しい考えや不安など存在しない。

ただ、音楽の喜びに満ち溢れている。

染み渡るようなその曲は、彼女の意志を伝えてくるようで、自然と頬がゆるむ。

「……ありがとう……春歌」

そして最後の小節に

“私は、翔くんと一緒に居ます。どれだけ離れていても、どれだけ会えなくても、私は、翔くんと音楽で繋がってますから”

そう書かれてあった。














誰も知らない小さな恋は

大きな未来を運んでくる










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