好き嫌い | ナノ


「はぁ……」

鬼の頭領である彼と契りを交わし、晴れて夫婦となった私は、大きな屋敷に彼と住んでいた。
しかし、頭領としての仕事で遠出することが多い彼が屋敷に居ることは少なく、私の一人暮らしと化していた。

そんな時に聞いた噂。

それは、彼が綺麗な女性を連れて歩いていた、それだけではなく抱き締めていたという信憑性に欠けた噂だ。
けれど、私の不安を煽るには充分なもので、ムクムクと湧き上がる彼への疑惑が私の中で渦を巻いた。

(もしかして……浮気?…あれだけ…あ…愛してるだとか……お前だけだ…とか言ってたのに……)

彼は魅力的だし、女性からの誘いは後を絶たないはずだ、それに比べて私は平凡そのもの。
最近、鏡を見ては溜め息が出るのは、それが原因だったりする。

「……うぅ」

好きではなかった彼が、私を強く求めたから次第に私も惹かれていった。
それなのに、今、私は彼に置いていかれそうになっている。

「……散歩でもしようかな」

(少しは、気分転換になるかもしれない)


**


春のポカポカした気候が心地良い。
繁盛するお店が並び、人が沢山いて賑やかだ。

(ここに来て正解。……賑やかな方が気が紛れる)

楽しそうに談笑する女性達や、元気に駆け回る子供達、そんな和やかな風景に、私の中の渦巻いていたものが消えていく気がする。

「……千景さん…何してるんだろ」

渦巻いていたものが消えてしまうと、残るのが寂しさだ。
澄んだ青空を見上げれば、彼に会いたくて仕方がなくなる。

「きゃっ」

空を見過ぎたせいで前方不注意になり、人とぶつかってしまってグラリと体が傾いた。

(転ける!)

地面に激突すると思い、目を瞑ったけれど体にその衝撃はなく、浮遊間だけがある。
恐る恐る目を開けると、若草色の着物が目の前に広がっていた。

「大丈夫ですか?」

中性的な、けれど男性だと分かる透き通った声が真上から聞こえ、視線を上へ向ける。
そこには、艶やかな黒髪に白く陶器のような肌、スッと伸びた鼻筋、そして相手を捕らえて離さない魅惑的な瞳の青年がいた。

「あっ…はい。私…よそ見してて、ぶつかってしまい申し訳ございません」

慌てて立ち上がり頭を下げたが、クスクスと笑う声が頭上から聞こえてくる。
頭を上げて見れば、青年は私を見て笑っていた。

(千景さんとは正反対な人……)

優しげな雰囲気に情豊かな青年は、彼とは違う。
彼は、こんな風に親しみやすい雰囲気を持っていない。

「えっ!あっ…ごめんね?……泣かせちゃった」

そう言って青年は、近づいて私の頬に触れた。

(……私、泣いてるの?)

泣いていることに驚いて呆然とする私に、青年は零れていく涙を拭っていく。
その間も、ごめんねと誤り続ける青年に違うと伝えようとしたが

「……何をしている」

男らしく艶やかな聞き覚えのある声。

「千景さん……」

待ち続けていた彼が、目の前に立っていた。
その姿は変わらず、威圧的で気高く美しい。

彼の視線は私の頬に向かい、その後、鋭く尖った瞳で私じゃなく青年を見据えた。

「……何のつもりだ貴様」

そう言葉を発するも、青年は至って冷静で、柔らかな笑みを浮かべ

「何のつもり何も、この女性を助けただけですが?」

と私の肩に手を置いた。
その瞬間、彼のこめかみがピクリと痙攣し、怒りが頂点に達したことを知らせる。

「……………帰るぞ」

私の腕をグイッと引いた彼は、早足で歩き始めた。私は、後ろを振り返り

「あの…!ありがとうございました!」

と助けてくれた青年にお礼を言うと、彼の私の腕を握る力が強くなる。


***



「どういうつもりだ」

家に着く頃には私の息はあがり、肩で息をしていた。
それでも、彼は容赦なく私を壁へと追い込む。

「どういう…つもり…も…なにも…」

“さっきの青年が言ったとおりです”

と言葉を紡ごうとしたが、それは不可能に終わる。
その理由は、彼の顔が至近距離にあり、そして唇が触れ合っていた。

呆然とする私をよそに、口付けは深くなっていき、息苦しくなる。

「…んぅ……ちか…げ…さ」

気を失うかと思うギリギリで呼べば、唇は離れ、彼の整った顔が不快そうに歪んだ。

「……この俺がいるのにもかかわらず、他の男と逢瀬か?」

「違いますっ!…助けてもらっただけです。それに…千景さんだって、綺麗な女の人と会ってたんでしょ?」

最後は消え入りそうな声になり、怖くなって俯むく。彼がどんな表情をしているかは分からないが、怒っていることは確かだろう。

「…………誰がそんなことをお前に吹き込んだ」

「……噂で聞いただけです」

噂を信じてしまう自分に恥ずかしさはあるが、真相を確かめなければ安心できない。

「…嫉妬か」

そう彼が呟き、私を抱き締めた。

「……俺がお前以外に目を向けるとでも思ったのか?」

俯いたまま頷けば、頭上から溜め息が聞こえる。

「……お前が俺を疑おうが、離れたいと言おうが、俺はお前を離すつもりはない」

抱き締める力が強くなり、体が壊れるんじゃないかと思いながら、私の自由はないのだと確信した。

「……何ですかそれ」

「お前は、俺のものだということだ」

(……不安だったのに)

その不安は、彼の言葉によって消え去っていく。

私は、彼のものなのだ。








好き嫌いなんて問題じゃなくて

私は、彼から離れることはできない。


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