story | ナノ


▼ 今になって思えばって話だけど、私たちの未来はきっと、瞬き一回分の時間で決まってたんだ

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私にはペットがいる。
名前はイゾウ、種類は人間、性別は雄。雨の日に拾った。
熱にうなされてたからやむを得ず看病したら、居着いてしまった。割とよくある話だと思う。もっともそれは現実にではなくて、あくまでドラマや小説の中でよく見る設定って意味だけど。
玄関を開けてただいまというと、立ち上がってこちらに歩いてくる影がリビングのガラス扉越しに見えた。

「遅かったな。またサービスでもしてきたのか?」

イゾウがお帰りと微笑むだけで、場の空気が華やぐ。ありふれたアパートの玄関につけられたオレンジ色の照明すら、いつもより明るく感じた。

「したくてしてるんじゃないけどね。4時間は流石にサービスしすぎたかも」

サービス残業なんて言葉はこの世から滅亡すればいい。
わざとげっそりとした顔をして見せると、イゾウはひょいと肩を竦めて、そりゃ大盤振る舞いだなと笑った。後ろで緩く束ねた黒髪が肩口で揺れる。すらりと伸びた長身は、狭く窮屈な廊下でも凜とした印象を損なわない。イゾウ、と呼んだらいつも近くまで来てくれる辺りが本当にペットのようで、可愛いなと思う。ペットと呼べるほど無邪気でも純情でもないけど。

「もうなくなったの?」

ふとイゾウの手元を見ると、空っぽのペットボトル。麦茶だ。

「あァ。こう暑くちゃあ喉が渇いていけねェな」

イゾウはずっと家にいる。たまにふらりと散歩に出かけるから、ずっとというのは語弊があるかもしれないけど、要は無職なのだ。お金を与えたことは一度もないからヒモではないけど、食べ物や飲み物は与えるから、ペット。他の人が聞けば、眉を顰めるに違いないけど、恋人でもなくて同居人とも違う私たちの関係を表すのに最適な表現はやっぱりこれだと思うし、なにより誰にどう思われようが、今の不思議な均衡が意外と楽しかったりもして。
本人もペットとしての自覚があるらしい。以前ふらりと外から戻ってきたイゾウにどこに行っていたのかと尋ねると、飼い主が散歩してくれねぇから自分で散歩してきたんだと言って、一人悦に入ってげらげらと笑っていた。

「買いに行くの?奥の棚にストックしてあったでしょ?飲んじゃった?」
「さてねぇ、見てねェな」
「もう、また?部屋のものは適当に使っていいって言ってるのに」

イゾウは勝手に棚やクローゼットを開けることはしない。冷蔵庫すら開けない。私はそんなイゾウが不満だった。こちらの生活に踏み込んでこないということはつまり、いついなくなってもいいようにしてるってことだろうから。最初こそ風邪が治っても一向に出ていく気配のない様子に戸惑っていたけど、いつのまにやら私はイゾウという存在を手放し難くなっていた。この関係に嵌っているのは、きっと私のほうなんだろう。

簡単に作った食事を済ませて、二人で後片付け。お皿洗いはイゾウの担当だ。

「あとでさ、海行かない?」
「あぁ」

この街には海がある。家からも歩いていける距離だから、私たちはよく海を見に行く。ただ波打ち際を歩いたり、浜辺に座って夕日を眺めたりするだけだけど、私はイゾウと見る海が好きだった。二人並んで過ごすその時間は、恋人のような感覚を味わうことができるから。

「次の週は花火大会だね。このマンションの屋上から綺麗に見えるんだよ」
「へェ。そいつァ美味い酒が飲めそうだ」
「でしょ?」

言いながら私がテーブルに置いてあった麦茶を冷蔵庫に仕舞うと、イゾウは物言いたげな目で連れ去られるペットボトルを見つめた。

「愛しの麦茶が飲みたいなら、冷蔵庫開けようねー?」
「はん、別に構やしねェよ。必要があったら開けるさ。お前はなんでンなことに拘るのかねぇ」

なんでか、なんて。分かってるくせに。
ソファに座ってコーヒーを飲む。テレビの中では楽しげな会話が繰り広げられていて、私たちもつられて笑った。同じタイミングで上がる笑い声が心地よかった。ぽてん、と肩口に頭を預けると、イゾウは私の髪にそっと唇を落とした。首をひねって見上げると、ぱちり目が合った。そのまま降ってくる唇にそっと瞼を閉じる。いたずらな髪がさらりと頬に触れて、流れた。貪るようなキスではない。ゆっくりと軽やかで、時折甘い音を立てるような。心を包んで味わうような、余韻を引くキス。合間に薄く目を開けると、男の割には長い睫毛と伏せた瞳が見えて、胸がキュンと鳴いた。

「随分余裕じゃねェか」

イゾウは唇がくっつく距離でそう言って笑った。
余裕綽々なのは自分のくせに。だってイゾウの瞳に映る私の顔は、どう見たってうっすらと上気して、惚けてる。

「ご主人に噛み付くなんて、イゾウは駄目なペットだ」
「ご奉仕して差し上げてンだ、駄犬なりに」

自分で言った駄犬という言葉に、ククッと目を細めて笑うイゾウは、どちらかというと猫だと思う。
甘い行為に、甘い囁き。
でも、それだけ。
私はとっくにイゾウに溺れてるのに、嵌れば嵌るほど否が応でも実感する。例えばキスが終わる一瞬とか会話のふとした隙間とか、そういった時にイゾウが見せる表情には妙に余裕が感じられて、その度に私はイゾウを遠く感じる。物理的な距離ではなくて、心が遠いのだ。何度夜を共にしたって、抱き合って眠りについたって、イゾウが私にその先の関係を望み、請うことはなかった。唇を重ねる度、イゾウの身体を受け入れる度、私の心はイゾウを欲して、同時にどこか諦めに似た気持ちがじわじわと心を侵食する。

私のこと、どう思ってるの?私はあなたの何?

何度口にしようとしたか分からない。でも、聞けない。
聞けば終わってしまう、そんな気がするから。



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「散歩しよっか?」

私の言う散歩ってのはつまりコイビトごっこがしたいって意味なんだけど、イゾウは分かっているのかいないのか、はたまた分かった上で楽しんでいるのか。

「首輪は要らねぇのか?」

先に玄関を出たイゾウが、こちらを振り返って楽しげに笑った。小首を傾げて指で自分の首筋をなぞる仕草が余りにも艶っぽくて、目のやり場に困ってしまった。

「放任主義だからいいんですー」

咄嗟に返した言葉がどもらなくて、よかった。


コンビニでビールとさきいかを買った。目的地は海だ。
蝉のぬけがらがあった。カキ氷が食べたい。他愛ない会話が途切れることはない。隣を歩く横顔がいつにも増して活き活きしているように見えるのは潮の香りのせいかもしれない。海岸手前の赤信号で立ち止まる。耳に届く波の音が不思議とイゾウには似合っていて、私は海にすら嫉妬した。

「手繋ごうよ」

信号が変わって歩き出すタイミングで、そんな科白がするりと口をついて出た。そんなこと、言うつもりなんてなかったのに。

「厭だね。こんな熱帯夜に手ェなんざ繋いだ日にゃあ、その腕ごと切り落としたくなる」
「…だよね。っていうか、そのちょいちょい狂人染みたこと言うのってなんなの?普通に怖いんだけど」

「素直で可愛いだろ?」
「え、どこが?」

「繋ぐか?」
「結構です。そんなあくどい笑顔で言われておいそれと片腕捨てるほどバカじゃないし」
「そうかい。そりゃあ残念だ」

顔を見合わせて、同時に吹き出した。
幸せだな、と思った。


「…イゾウ?」

背後から誰かがイゾウを呼んだ。綺麗な女の人だった。
おそるおそると言った具合に声を掛けてきたその人は、振り返ったイゾウの顔を見て、信じられないとばかりに目を見開いた。

「やっぱりイゾウじゃない。急にいなくなるから心配したのよ」

イゾウが煩わしそうに、そっぽを向いた。
状況がまるで掴めない。降って沸いた修羅場はまるでとってつけた張りぼてのようで、私はドラマのワンシーンを見ている視聴者にでもなった気分だった。言葉の一つも発さず、存在ごと無視するような態度のイゾウに業を煮やしたのか、その人は私に向き直った。

「今この人あなたの家に住んでるの?」
「え?まぁ…、そうですね」

「返してくんないかなぁ。この人私のなんだよね」

苛立ちを隠す余裕なんてとうになくなっているのだろう、口調の端々には棘と嫉妬が溢れ返っている。上から下まで値踏みするように眺める不躾な視線をそのままに、私はぼんやりと立ち尽くしていた。

他の人のところでも同じようなことをしていたのか。
なんだ、私だけじゃなかったのか。

そんな気はしてたんだけど、実際に目の当たりにしてしまうと胸にえも言えぬもやもやとした感情が湧き上がって、どうにも対処できない。ただ、心が痛くて、悲しかった。

「悪いが俺ァあんたの顔すら覚えちゃいねぇよ。たかだか数日一緒にいたくらいで恋人面される覚えはねぇな」
「っ…酷い!こんな女のどこがいいのよ。私のほうが、もっと、ちゃんと…」

怒声は泣き声に近かった。縋るように伸ばされた手をイゾウはさも鬱陶しいとばかりに払いのけて、挙句睨みつけた。舌打ちすら聞こえてきそうだ。

「こんな女たァ随分じゃねぇか。話す気にもならねぇな。さっさと消えな」

そんなイゾウの振る舞いに、私は頭を殴られたようにガツンと衝撃を受けた。

あの人は、私だ。近い将来の。
イゾウに怒りをぶつけているその顔は般若のように恐ろしくて、悲しげだった。
きっとイゾウはまたふらりと別の人のところに行って、この人と同じような仕打ちをいつか私にもするんだろう。そうなったら私はたぶんこの人と同じように取り乱して、泣き喚く。



「ねぇイゾウそろそろ出てってくれないかな」

家に戻ってきた後、私はそう切り出した。先ほどからの苛立ちを引きずったままのイゾウは、無言のまま睨みつけるように眉間に皺を寄せた。綺麗な顔ってのはこんな時驚くほどの威力を持ってその場を制圧する。

「さっきの女なら数日一緒にいたってだけだ。気にするこたァねぇよ」

気にしない、わけがないじゃないか。数日後には、他の女に私のことをそう話すかもしれないのだから。
終わらせなきゃ。
とにかく今すぐ終わらせないと、きっと私は壊れてしまう。

「そういう、…ことじゃなくてさ。ほら、イゾウもちゃんと自立して働いた方がいいと思うし」

「俺に出て行けってぇのか?」
「…うん。そのほうがいいと思う」

少なくとも、私にとっては。

「そうか。世話ンなったな」

息苦しさすら感じるほどの沈黙の中、イゾウはそう言って部屋を出ていった。随分とあっさりした幕切れだった。やっぱりイゾウからすれば、私も大して思い入れのない戯言遊びの一環だったんだろう。
あとに残ったものは半分程残った麦茶とベランダで風に揺れるシャツだけだったけど、そんな目に見えるものなんかよりも、イゾウの残り香のほうがよっぽど胸を締めつけた。人間は泣くことでストレスを発散する生き物だとどこかの誰かが言っていたけど、もしそれが本当なら、涙の一つも流せやしない私は朝が来る頃にはストレス過多で発狂してしまうんじゃないだろうかと、半ば本気で心配になった。イゾウを失った喪失感は、それほどまでに私の感情の多くを奪い去った。


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「…ただいまー」

あれから数週間。
私の生活は酷く味気ない。あれがしたい、ここに行こうと話していた夏のイベントはまるで遠い昔のことのようで、ただ暑さに伝う汗だけが唯一季節を感じさせるものだった。

ピンポン

「はーい」

こんな時間に誰だろう。
適当に身につけた服で、扉を開ける。

「よお」
「イ、ゾウ?」

スーツ姿のイゾウがいた。
パリっとしたスーツは細身の体を更に引き締めて、首元のネクタイからは色気すら漂っていた。何故か手に持った麦茶のペットボトルさえなければ、どこぞのモデルと言われても納得してしまうだろう。

「…なんで?」
「お前ェあの時自立しろってほざいただろう。ったく人が貴重な有給消化して一緒にいてやったってェのに」
「イゾウ、ホーム、…無職じゃなかったの?」

突然切り出された話の終着点がまるで見えてこない。混乱した頭でとにかく気になったことを口にしたら、うっかり口が滑った。慌てて言い直したところで時既に遅し。イゾウは当然私が言いそうになった言葉に気付いて、綺麗な笑顔で此方を睨んだ。そのままイゾウが勤め先として口にした社名は、この国じゃあ有数のトップ企業で、しかも本人曰く、自分はそこの幹部なんだとか。

「なんか…偉そうな口聞いてすいませんでした」
「詫び入れてェってんなら、精々身を粉にして尽くしな。まぁお前じゃあ一生かかっても足りねェだろうがな」

「なっ!ていうかわざわざそんなこと言いにここまで来たの?」
「んな暇じゃねぇさ。越してきたんだ」

「…どこに?」
「隣」

え?
どういうことだと混乱している私を見て、イゾウは「だから隣だ」と顎で隣の部屋のドアを杓った。

「なんで?」
「自立して働けっつったのはお前だろう」
「そうだけど」

…だから、なんでかって聞いてんじゃないこの色気魔神め。
全く進まない話と繰り返される意味の分からないやりとりに、心の中で悪態。

「自立しろってんなら部屋ァ借りたろ。元々働いてたしな。だから俺が出て行く理由がなくなった」
「はい?」

「また宜しくな。ご主人さん」

喜べ、家出したペットが出戻ったぞ。しかも麦茶持ちだ。
さぁどうだとばかりに不敵な笑みを浮かべるその顔を、不覚にも可愛いなんて思ってしまった時点で、私の負けなんだろう。
風が吹けば桶屋が儲かるってェやつだな、なんてよく分からないことを言ってイゾウは一人げらげらと笑った。何故か楽しそうなイゾウの雰囲気に押されて、先程までの胸の痛みや悲しさに知らず知らず張り詰めていた気持ちが緩んで「イゾウの阿呆ー!」私はその場で号泣した。

【今になって思えばって話だけど、私たちの未来はきっと、瞬き一回分の時間で決まってたんだ】
だから、外堀をがっちり固めて、君を奪いに参りました。

「…なんでここで寝るの?部屋、隣なんだよね?」
「ぐぅ」




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