正反対が同席 | ナノ


▼ 心臓が合図をくれる



長く付き合っていた彼氏と別れた。
別れを嘆くというよりも、半ば約束されていた筈の未来が、突然手から零れ落ちてしまったことのほうが辛かった。
特別休暇を取ったのは、気分転換が必要だと思ったからだ。有休と違って賃金は出ないけど、抽象的な理由でも申請が出せる。女性社員の割合が高い下着メーカーらしい制度だ。
そう、今回の旅行で私が求めていたのはリフレッシュであって、旅先でのハプニングなんてものではない。断じて。


「うそ、圏外…?」

運転中、突然ハンドルを取られた。
間一髪でガードレールにぶつかることは避けられたけど、こんなことがあった直後にまた運転する勇気はない。
突然の豪雨が関係しているのか、はたまたまったく別の理由か。そんなことは全く分からないけど、今の私には人里離れた山道で立ち往生してしまったという事実だけで既にキャパオーバーだ。それが夕闇迫る時間で、尚且つ頼みの綱である携帯が繋がらないとなれば尚更。

「…こういう時ってどうしたらいいんだっけ」

ツイてないと嘆くには気が動転しすぎていた。落ち着け。落ち着け。深呼吸をしながら、教習所で習った筈の記憶を手繰り寄せる。確か追突防止のためにハザードランプを点灯させるんだったか。三角の板みたいなのも置いてた気がするけど、そんなの見たことないな。トランクに載ってるのかな。
車から降りると、目も開けていられないほどの強風と痛いほどの雨粒。マスカラが雨に負けたのだろうか、目に入る雫が痛い。

「あった」

三角の反射板は拍子抜けするほどあっさりと見つかった。そりゃそうだ、トランクなんて車を買った当初から使った記憶なんて殆どない。
車の後ろに置いてみた。けど、すぐに倒れて使い物にならなかった。

「もうなんなのよー。緊急時に使えない装備なんて意味ないじゃない」

『お前と一緒になる気はない』

きっと心細いからだ。こんなときに一番思い出したくない科白が脳裏をよぎるのは。

「アンタは考えてなくても、こっちは考えまくりだったっつうの」

ふざけんな、ちくしょう。
傷心旅行なんてセンチメンタルなことをした私が阿呆なのかもしれないけど、それでも今の状況ですら元恋人のせいに思えてならない。

辺りを見渡してみた。
辛うじて二車線を保っている山肌に沿った道。車の影はおろか民家も見当たらない。ガードレールの下は高さ3メートルはある崖だった。落ちなくてよかった。本当によかった。
まだ19時を回ったばかりだ。人通りが少ないとはいえ、流石に車の一台くらい通るだろう。この豪雨の中、むやみに車から離れて助けを呼びに行くのは得策ではない。今はただ待つべきだ。そう判断して車に戻った。

「全く問題なし。よくあることだよ、うん」

車に叩きつけられる雨音はとても大きい筈なのに、呟いた言葉は妙に車内に反響して、自分を励ますつもりが余計に心細くなった。

どれくらいそうしていただろう。パッパー。不意に聞こえたクラクションにはっと顔を上げた。雨は、まだ降り続いていた。誰かが軽トラから降りてこちらに走ってくるのが見えた。ヘッドライトが雨に反射して、キラキラと視界を遮った。

「平気かよい?」

雨も厭わず駆け寄ってきたその人は、窓越しにこちらを覗き込んだ。

「は、はいっ」

うっかり。
ついうっかり、鼓動が高まった。
だってその蒼い瞳が、本気で心配してくれてたから。

「…安心しろつっても無理かもしれねぇが、見ての通り俺は本職だよい。車の修理工場で働いてる」

口調は少し気だるげだった。本職だと言いながら、男は両手を広げて自分の服を見下ろすようにした。改めてその服を見てみると、成程確かにそれはつなぎの作業着だった。

「パンクしちまってるな。何事もなくてよかったよい」

マルコと名乗った男は話しながらも、手馴れた手つきでさくさくと車を見てくれた。
よい、というのはこの辺りの方言かなにかだろうか。気だるげな口調なのに不思議と暖かさを感じた。都会の人間にはない実直で素朴な感じが素敵だと思った。

「急にハンドル取られたから、これ以上運転しないほうがいいと思って」
「そりゃあいい判断だ」

素朴さが素敵だと思う反面、勿体無いとも思った。高い背丈に、長い手足、きっとしなやかな筋肉がついているのは見て取れる均衡のとれた体つき。都会に出ればモデルとして十分通用するに違いないのに。
そんなことを考えてしまうのは、下着メーカーという職業柄、普段からモデルと接する機会が多いからだけど、マルコさんは今まで出会った誰よりも素質と魅力を持っていると感じた。

「マルコさんはボクサーパンツ派ですか?」
「…は?」

「…あ。いや、すいません、つい。えっと、マルコさんはこの辺りの人なんですか?」
「あぁ、よい。この先にある町工場で働いてる。アンタは見かけねぇ顔だな」

「はい、旅行で。この山を越えて、海のほうに抜けようと思ったんだけど、このザマです」
「ははは。まぁ応急処置はしといてやるからよい、山抜けたら保険会社に電話してみりゃあいい。代車でも用意してくれんだろい。そしたらまぁ旅の続き楽しみゃいい」

二人でスペアタイヤに付け替える作業をした。私は殆ど役に立たなかったけど、そんな私を見てマルコさんは終始穏やかに笑っていた。

「綺麗な手ですね」

タイヤの前に二人でしゃがみ込んでいるとき、不意にマルコさんの手が目に入った。

「手?どこがだよい。油まみれだろうが」

ひょいと肩を竦めてマルコさんは笑った。

「好きです」
「……は?」

「油で汚れてたって綺麗だと思う」
「あぁ、手の話かい。あんまり田舎モンをからかうんじゃねぇよい」


「ねぇマルコさん、…マルコさんはこの町、出ないの?」

ボルトを締めていた手が止まって、目が合った。

何秒、見つめ合っただろう。
重なった視線にのせた想いは、きっと、ちゃんと、伝わった。

「…親父の工場なんだ、俺の働いてるとこはよい。小せェけどな、本当に車が好きなヤツらはわざわざ山ァ越えてうちに持ってくる。俺の誇りなんだ、悪いが離れる気はねェよい」
「そ、っか。そうだよね。ごめん、変なこと言った」

「いや、構わねぇよい」
「…」

「…」
「…」

「…で、」
「え?」

「お前は来る気はねぇのかい?この町に」



【心臓が合図をくれる】

きっと世界は、そういう風にできている。




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