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▼ 嗚呼、もう逃げられない

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サッチがあの子を見ていると気付いたのは何時のことだっただろう。
親子程とは言わないけど十は離れているだろうあの子は確かにとても元気が良くて、あれだけ懐かれればなにもサッチでなくとも悪い気はしないだろうなとは思う。
勿論サッチはあの子の教育係という立場であるから面倒を見るのは当然で、そんなサッチのことをあの子が頼りにするのもまた当然の流れだとは思うけど、そうやって頭を撫でてやるだとか身を屈めて顔を覗き込んで笑いかけてやるだとか、そのことで真っ赤になるあの子の反応を楽しむだとか、そういうことはやはり些か度が過ぎるのではないかと思う。

「ペンでもへし折る気か?」

面会時間の過ぎたナースステーションの前には面会希望者も患者もいない。
背後から聞こえた声はとても聞き慣れたものであったので私は「うん…や、折らないし」適当な返事を返した。
視線はずっと待合スペースのベンチが並ぶ一角で書類チェックというよりただじゃれてるようにしか見えない二人を捉えたままで、イゾウに指摘されて初めて手の中にあるボールペンの存在を思い出した。
ファイルとペンをデスクに置いて、代わりにとうに冷えたコーヒーをぐいっと飲み干す。ついでに頭の中に巣食う邪念も胸中に仕舞い込もうとしたけどやっぱりそう巧くはいかなくて、せめて視線だけは隣に立つ白衣の男に戻した。

「阿修羅って知ってるか?」
「私の顔ってそんなに酷い?」

医者やナースなんていうのは基本的に不健康だったりする。
時間が不規則に成りがちなのもあるし、多少体調が優れなくとも勤務先が病院なのだからとりあえず出勤してから薬をもらえばいいと思ったりもするわけで。
疲れているのだと思う。サッチやイゾウ程ではないにしても私もそれなりの年数現場に立ち続けているから、疲労が積もりに積もっているのだろう。そうに違いない。
ふたりは医者で私はナースという立場の違いこそあれ、これまで分かち合ってきた経験やそこから得た医療従事者としての想いは同じと言ってもいいだろうし、なにより私とサッチは恋人という関係でもあるのだから、私たちの結びつきはそこいらの甘いカップルなんて及び腰で逃げ出すほど強いものであるはずだった。

ところがどうやらそれは私の希望的観測に過ぎなかったらしい。
サッチはあの子に惚れている。
もしかしたら本人はまだ無自覚かもしれないけど、長年隣にいてサッチの様々な表情を見続けてきた私の目は誤魔化せない。ダウト。

「振ってやりゃあいいじゃねぇか」

お前から言われりゃああいつだって目が醒めて縋ってくるんじゃないかというようなことをイゾウは言った。
興味なさそうに向こうを一瞥しながら無責任なことを言ってのけたイゾウの口調は面白がるような語気をはらんでいたから、私は悪趣味すぎると眉を顰めて奥の準備室に引き返す。
二人の楽しげな声にいい加減苛立ったからなのか、これ以上傷つきたくなかったからなのかは自分でも分からなかったけど、
二人から隠れるつもりで向かった準備室の壁には書類や薬の受け渡しのための小窓が開いているから結局二人からは逃れることはできなかった。
勝手知ったる部屋構成のはずなのに、ここに来れば大丈夫だと思っていた時点で私はきっととても動揺しているに違いないけど、生憎自分ではそんなことには気付かなかった。

ただ、部屋に入った瞬間、頬を暖かいものが伝ったことに驚いた。
それが涙だと気付いたのは数拍遅れでやって来たイゾウに抱きしめられた時だった。
突然のことに驚いたけど、イゾウという男は時折こうして過度のスキンシップをとってからかうたちの悪さがあるのでそのままにした。嬉しいとは思わないけど特にイヤなわけでもない。
背後から包み込むように伸びてきた腕に、この期に及んでそれがサッチであることを期待してしまう自分に嫌気が差す。
相変わらずあの子とサッチの楽しげな声は聞こえているし、むしろますます盛り上がっているから、そんなことある筈ないのに。

限界だと思った。
懐の深い大人の女を演じてまぁ若い子に鼻の下伸ばしちゃってなんて余裕なフリをすることも、サッチの心が徐々に離れ始めていることに気付かないフリをすることも、本当はもうとうに限界を越えていたのだ。
人間は泣くことでストレスを発散するのだというから、今こうして私の意思に反して涙が流れ落ちるということはつまり自分自身からの最終警告なのだろう。もうこれ以上我慢すると壊れるぞというシグナル。

「さっさと終わらせちまえばいい」
「…そ、んなの無理。ヤダ」

「なら余所見すんなってぶん殴ってみろ」
「っ、そんな、虚しいだ、けじゃない」

涙が止まらない。
嗚咽が止まらない。
どこかからかうような面白がるようなイゾウの口調に少々腹が立ったけど、文句を言おうにも鼻がぐずぐずして上手く話せない。

こちらから振るか、もう一度振り向かせるか。
イゾウの提案はどちらも私には到底出来そうにない。

相手の心変わりを察して自ら身を引くのがいい女なのだといつか誰かが言っていたけど、この期に及んでサッチの声を探してしまう私には絶対に無理だ。例えその声が紡ぐものが他の女との楽しげな会話なんていう耳をふさぎたくなるような内容でも、私の耳は常にサッチを求めてしまう呆れた構造なのだ。
ならばもう一度振り向かせればいいのかもしれないけど、それはもう叶わぬ願いだということはサッチに最も近い距離にいた私自身が一番理解している。

身動きが取れない。完全に白旗だ。
八方塞がりとはまさにこのことを言うのだろう。

「…振られるの、待つとか」

すごく嫌だけど近い将来そうなるんだろうというようなことを嗚咽交じりに私は言った。

「随分自虐的じゃねぇか」
「煩い」

人の悲しみを楽しんでんじゃないわよ、と文句の一つでも言ってやろうと思った。
でも、私は何も言うことなく開きかけた口を閉じた。イゾウの口調がいつの間にかとても優しいものになっていたからだ。

「…イゾウ?」
「ん?」

なんて優しい声を出すのだろう。今、後ろから私を包み込んでいるのは誰だ。いや、イゾウなんだけど。
飄々としていて、からかうようなことをいけしゃあしゃあと言ってのける、それがイゾウだ。勿論、本当はとても仲間想いのあったかいヤツだということも知ってる。

でも、それにしても、イゾウのこんなに優しい声を聞いたのは初めてだった。ともすればまるで愛しい恋人に愛を囁いてるように聞こえなくもない。私の心臓はその不意打ちにドキリと音を立てた。

腰の辺りからにょきりと伸びて私をぐるりと巻き込んでいる腕は間違いなくイゾウのものだ。見慣れた腕時計が何よりの証拠。あれは私が誕生日プレゼントにあげたものだから見間違うわけがない。友人へのプレゼントの域を超えない代物であるから高級とはとても呼べないけど、防水加工でタフな上に時間が狂わないのだと言ってイゾウは愛用してくれている。あげた側としてはとても嬉しいことだけど、

「…それ、まだ使ってるの?」

愛用、という一言で片付けるには少々年季が入りすぎているような気がした。
だって、私があれを贈ったのは私とサッチが恋仲になる前の話で。

あれ?
違和感を感じた。
今まで当たり前のように、喩えるならイゾウの一部のように存在していたから気付かなかったけど、ふと思い至ってみると違和感しか感じない。

ただの友人から貰ったものをこう何年も愛用するだろうか。
私ならしない。

じゃあなんで。
もしかして、と頭をよぎった思いつきにかぶりを振った。

ないない。ありえない。イゾウが私を好き、だ、とか…あるわけがない。そうだ、そういえばこの腕時計はタフなのが売りだった。壊れないからずっと使ってるんだろう。そうに違いない。何故私はこんなに焦っているのだろうと客観的な自分が頭の片隅で首を傾げる。
思えば、私はイゾウを恋愛対象として見たことがなかった。

なかった?
本当に?
今まで一度も?

心臓がバクバクと音を立てる。イゾウに聞こえているんじゃないかと思うとますます騒ぎ出した。

イゾウを恋愛対象としてみたことがなかった?

否、あった。
私はイゾウに惚れ、かけていた。
でもその想いを止めたのだ。叶うわけがないとブレーキをかけたのだ。本気になったらもう戻れないような気がしたから。
そして、サッチから想いを告げられ付き合った。

何故、忘れていたのだろう。否、何故忘れることなどできたのだろう。
その時の感情を思い出してしまった今、こんなに深い想いを忘れていたという事実が信じられない。

イゾウの腕に力が篭った。
ドキンと鳴った心臓は今にも口から飛び出しそうだ。

「どっちがいい?」
「…え?」
「これをずっと嵌めてる理由」

タフで全然壊れねぇからか、それとも、

「アン、お前をずっと想ってたからか」

猛毒だ。
耳元で囁くその声は吐息混じりで泣きたくなる程甘かった。

「そ、んな。なんで?どうしよう、」

後ろを振り返ると、待っていたかのように腕が緩んで、あっという間に正面からまっすぐに捉えられた。
イゾウの香りにくらくらする。

「どうする、か。そうさねぇ、」

イゾウが口許を上げてにいと笑う。

「まずはあいつを振って来い」

さも可笑しそうな口調で言ってのけたイゾウだけどその目は驚くほどの真剣で、それなのに瞳の奥には不安や必死さなんて土台似合わない何かもチラついているもんだから、私の胸は甘く痺れて、無意識に、でもしっかりと頷いていた。


【嗚呼、もう逃げられない】





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