▼ ぎゅっと握り返したそれはきっと、永遠の絆
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今週も漸く終わる今日は金曜日。
少し前までは週末に浮かれる同僚たちの楽しげな声が飛び交っていたフロアもいまや無人に等しくて、それなのに俺はまだ会社にいた。さして急を要する案件があるわけじゃないし、仕事が溜まっているわけでもない。ただなんとなく会社に残っている。
親父の居酒屋に行くか、家に帰るか。折角の金曜だというのにそれくらいの選択肢しかないのだ。もし同僚に言っても誰も本気にしないだろうけど実際の俺なんてそんなもんだ。
はぁーとため息を吐いて味気ない時計を見上げる。
針は21時を過ぎた辺りを律儀に動いていて、その下には11月16日(金)。
「あぁ」
ぼんやりとその文字を眺めて口から出たのは、ため息とも声とも取れない言うならば空気がだた洩れたようなそんな音で。
11月16日。
ある意味、俺にとっちゃあ記念日だ。
前の奥さんと別れた日。いや、振られた日か。
数ヶ月で結婚してあっという間に終わった。
理由は妻の浮気ということになるんだろうが、もともとサバサバとしたところが魅力的だったあいつだから「やっぱサッチじゃなかったっぽい」なんて首を傾げて笑顔を見せられたら、他に好きな人が出来たのだと無邪気に言われたら、縋るのも馬鹿らしくて。今思い返しても随分とあっさりした終わりだったと思う。
今となってはあいつを思い出すなんてこともないし、未練のカケラも残っちゃいない。楽しかった旅行や幸せだった日常のヒトコマなんてもんはあっという間に薄れていった。ただひとつ、今も尚あいつが俺に残している何かがあるとすれば、恋愛への臆病さくらいなもんだろう。
もう3年。
未練もなけりゃあ新たな恋愛をする気もなかった俺にも、最近漸く気になるヤツというのができた。
アンという名前のその子はこの春にうちに入社した。専門学校を卒業したばかりだそうだ。デザイン要員として採用されたアンは今はデザイン課の所属だから直属の部下ではないけど、各部署を回るオリエンテーションの時に1ヶ月ほど一緒に働いた。マルコに言わせりゃ「あんなのガキじゃねぇかよい」と切り捨てられること間違いなしだから口が裂けてもいわねぇけど、俺はどうしようもないくらい惚れちまってる。
でも、だからこそ、こんな俺じゃあと身動きが取れなくて。
「…あ、」
「あ!サッチさんお疲れ様です!」
5日間働き尽くめた重い体でエレベーターに乗り込むと、一つ下で扉が開いた。
今まさに思い浮かべていた相手が俺を見上げてパッと明るい笑顔を見せる。
不意打ちだった。
金曜のこんな時間に遭遇するなんて思ってなかった。
普段の明るくて面白いサッチさんは完全に営業を終了してたもんだから気のきいた言葉なんて出るわけもなくて、ただ「あ」と一言。
「なんだかお疲れですね」
エレベーターに乗り込んだアンが珍しいと笑って「閉」ボタンを押した。
二人きりの空間。
爽やかで甘い香水の香り。
それだけでもくらっと来ちまうってのに。
壁にくっつくように背中をへばりつけている俺を振り返って、アンが照れたように笑う。
「サッチさんと会えるなんてラッキーだなぁ」
なーんて。
てへへと笑いながらそう付け加えて、アン#は前に向き直る。
おいおいおいおい
そりゃあ…反則じゃねぇか?
どういう意味だとか、その真意はとか。
そんなことに気付かねぇわけないんだ、俺が。
だから、
冗談めかしたその口調も、
此方を見上げた瞳の奥が意味する何かも、
その背中からだだ洩れちまってる感情も、
何もかもが申し訳ないくらいに分かっちまって。
正直に言うと、すげぇ嬉しい。
俺のセンサーは間違いなく、絶対に、100%、両想いだってコレ!と告げてるけど、さてどうしようか。なんてこの期に及んでうーんと一人百面相。
目の前では、耳まで真っ赤になっているアンの背中が無言でテンパっていて、階数表示はまだ21F。
「…あのさーアンちゃん、」
「ハ、ハハハイ!ゴメンナサイ!上司に向かって私とんでもないことを、」
「いや、あーそれはいいんだけど。俺、いくつか知ってる?」
「え?具体的には知らないけどだいだいは…あ、でも私、」
年齢差を理由に振られるのだと思ったんだろうアンが慌ててフォローのようなことを口にした。その口調がものすごく早口で、必死さがとても嬉しく感じる。
だからこそ、
始まってはいけない。そう思うんだ。
だってお前はこの先いい男に出会うチャンスなんていくらでもあるに違いなくて、
俺はきっと一度手にしたら一生離してやれねぇ程度には惚れちまってるから。
「じゃあさ、俺一回失敗してんのは知ってる?離婚してんだよ」
「…そうなんですか?」
こちらを振り返ったアンの視線が一瞬左手に降りて、はっとしたように「ごめんなさい」小さな声が非礼を詫びる。
10F
9F
「だからよ、悪いけど俺は恋愛する気なんかねぇんだ。アンちゃんももっと他にいい男見つけろって。な?」
7F
6F
「でもっ!」
アンがまっすぐに此方を見上げて、視線がぶつかる。
5F
4F
「…好きなんです。サッチさんが」
ぐっと唇を噛んで、涙を堪えてアンが言う。
2F
1F
ポーンと間抜けな音を立てて扉が開く。
向き合ったままの俺たちはそれに気づいていても動けない。
この扉を出ることが意味するのはハッピーエンドじゃないって分かってるから。
「…やっぱりダメ、ですよね」
ポーン
数秒の間をおいて、また音が鳴る。
閉まりかけた扉に反応して「し、失礼しました。では、」アンの体がそちらに向く。
気付けば手を伸ばしていた。
このまま終わりたくない。
そう思っちまう俺は、もうとっくに手放す気なんてなかったのかもしれない。
ちっこくて細いアンを抱きしめながら、想いの深さを自覚した。いや、本当は気付いてたから認めたというべきか。
「サ、サッチさ、」
「…俺、実はすげぇ面倒くさがりだし、相当嫉妬するし、他の男としゃべんなとか思うしむしろもう誰とも目ぇ合わせんなっつーかアンちゃんがもうイヤとか言っても絶対離してやれねぇっつーか、とにかくおっさんの執念はすげぇっつーか…」
とにかくもう「逃げるなら今だぞ」というようなことを思いつく限りアンに伝える。おっさんが本気になったらヤバいんだぞ、もう絶対逃げらんねぇぞ、と。ついでにおっさんが拗ねたら相当面倒くさいという事実も伝えておかねば。
振られたいのか、引き止めたいのか。自分でもよく分からない。
アンの肩口に顔を埋めてグチグチ言っていると、アンが笑った。
細い腕が遠慮がちに背中に回って、そのまま頭をぽんぽんと撫でる。
「…へ?」
まさかこの流れで頭を撫でられるとは思わなかった。間抜けな声できょとんと顔を上げると、アンはとても穏やかに、すごくすごく嬉しそうに微笑んでいて。
「…それってつまりOKってことですよね?」
そのままひょいと背伸びをしたアンの唇が俺のそれに触れて、一瞬で離れる。
「嬉しいです。一生離さないでくださいね?」
とりあえずお鍋とかどうですか?
嬉しそうに俺の手を取ったちっこい手に引かれて歩き出した。未だついていかない脳みそを必死に整理していると、アンが振り返って恥ずかしそうに言う。
「…部屋散らかってるから、1分待ってくださいね」
「…キッ、キムチ鍋にすっか?」
「えーいやですよ。キムチくさくなるじゃないですか」
「あーじゃあモツ鍋?」
俺の手を引くその手はやっぱりすげぇちっこくて、一歩前を歩く背中はガキみてぇだけど、こうやって前を歩くアンを後ろから見守るのは、案外アリかもしれないと思った。
【ぎゅっと握り返したそれはきっと、永遠の絆】
「やっべー!アンちゃんすげぇ好き!」