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▼ 色を失った世界で握りしめた心臓

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ローの父親から貰ったお金は全部募金した。
そりゃ今まで見たこともないくらいの額だったから少しは惜しいと思ったけど。手元に置いておくつもりなんてなかったし、残しておきたくなかった。
あれだけの額なのだ、きっとたくさんのワクチンに変わって誰かを救うことになるだろうし、教科書や鉛筆やチョークなんてものになって誰かの未来を照らすかもしれない。
ローみたいに特別な才能なんてものは何も持ち合わせてはいないけど、同じ夢を見るくらいはいいよね。

銀行を出て町を歩く。
午前と午後の間の時間。駅前のバス停にはおじいちゃんやおばあちゃんが並んでベンチに座っている。電線にとまったすずめみたいだ。バスを待っているというよりただおしゃべりを楽しんでいるんだろう。
のどかな昼下がり。鳩がぽっぽと地面の何かを啄ばんだ。バス待ちの列に加わっておじいちゃんたちの会話に耳を傾けながら、タクシーの運転手たちが煙草を吸う様子をぼんやりと眺める。

浮いているように感じた。その場から。私だけが現実からすっぱりと切り離されたかのような、世界を外から眺めているような不安定な心持ち。なにも感じない。嬉しいとか悲しいとかそういう感情が一切抜け落ちてしまった。

ローがいないからだ。
そもそもローは勉強が忙しいから頻繁に会っていたわけじゃないし、メールだって電話だって碌にかかってきやしなかったけど、それでもメールを送ったら数通に一回はバカみたいに短い内容が返ってきたし、私が胃もたれで死にそうになった時なんて瞬間移動でもしたのかという速さで駆けつけてくれた。柄にもなくゼェゼェと息を切らしているのを見て笑ったもんだ。イテテとお腹を丸めながら。
私は確かに深い深い愛を与えられていた。

「会いたいなぁ」

ぽつり零れ落ちた言葉にいやいやと小さく首を振る。
頭の中では昨日の夜のやりとりが延々繰り返されていて、耳の奥にはローの掠れた声がこびりついている。

そうか、心を落してきたのか。

そうと思うと妙にしっくり来た。
心にぽっかり穴が空くとか隙間ができるとかそういうレベルじゃなくて、きっと私は心を丸ごと置き去りにしてしまったんだ。

あぁじゃあ、しょうがない。
空が青く見えないことも。

【色を失った世界で握りしめた心臓】



昨日の夜、ありえないことが起きた。
アンが別れを告げてきたのだ。

講義をサボって部屋を訪ねてもアンはいなかった。

てっきり。
てっきり、風邪でも引いてんじゃないかと。
熱が出て、動けねぇんじゃないかと。

アンが連絡を寄越さないなんざ、それくらいの理由しか考えらえねぇから。
食い過ぎて胃が痛くなってベッドを転がりまくってるような時にさえ、まるで緊迫感の感じられないメールを送ってくるようなやつなのだ。
−ヨーグルトください。いちごだけど具が入ってなくて、そんでファミマにあるよ、たぶん−
その時アンから来たメールの内容だ。
文自体が成り立ってさえいなけりゃこっちは講義中なのだ。わけが分からないにも程があって返事は返さなかった。ただ、メールを見てなんだそれはと小さく突っ込みを入れて笑ったような気はする。買いに行きゃあいいじゃねぇかと。五通後に漸く胃が痛いのだと書いて寄越した##NAME1##に、それを先に言えと怒って俺は教室を飛び出した。胃もたれがヨーグルトで治ると本気で思っていたアイツに心の底から呆れて、医学をかじっていて良かったと思った。


夜まで待った。
まさか事故にでも遭ったんじゃねぇかと周辺の病院に確認もした。
あいつは阿呆だから、もしや食いモンに吊られて誘拐でもされたのかとさえ思った。
何度も電話を掛けて、白い息を吐きながら空に浮かんだ月を見上げて何度目かも分からぬ舌打ちをした時、携帯が震えた。

「アンか?」

今何処にいるんだとか何をしてるんだとか、俺様を振り回しやがってとか。
言いたいことはたくさんあったし怒りや問い詰めたい気持ちなんてのも確かにあったけど、そんなことよりなにより声が聞きたいと思った。ちょっと鼻にかかった、俺に言わせりゃ馬鹿みたいなその声で、心配かけてごめんとただ笑ってくれりゃあそれでよかった。携帯を持つ手はすっかり冷たくなっていて、僅かに震えた声と指にあぁ俺は焦ってンのかと随分今更な感想を抱いた。

「ごめんね、ロー」
「…はぁ。あぁ、今何処にいる?」

口を吐いて出た息はいつもの溜息ではなく安堵によるものだった。
焦りや不安なんてもしや今まで一度も感じたことのない感情で強張っていた身体がゆるゆると解けていく。

「…知り合いの家」
「そうか」

誰の家だ、と一瞬のうちにアンの友人たちを頭にリストアップしながら足はエレベーターへと向かう。
俺から迎えにいってやる道理なんてあるわけねぇのに。

「何かあっ」
「別れよう」

何かあったのかと。俺がどれだけ心配したと思ってンだと。
そう言おうと開いた口はそのままの形で止まった。

は?
一瞬、いや数秒、もしかしたら数分。俺は固まった。
今、なんつったんだこいつは。
突然の言葉に全く頭追いつかない俺にアンは再び告げた。別れよう。

「ふざけてんのか?」

戻ってきた意識にまず沸いたのは怒りだった。
タチの悪い冗談だ。だってそうだろう?アンが俺から離れるなんざ、世界がひっくり返ったってあるワケねェんだから。

「なんの冗談だ」
「冗談じゃないし、ふざけてもないよ。…好きな人が出来たの」

「嘘吐くな」
「嘘じゃない」

アンの声が揺れる。
アンが本気かどうかなんて声を聞けば嫌でも分かる。
俺とアンは確かに頻繁に会ってたわけじゃねぇが、それでもアンの言動からは男の影なんて微塵も感じなかった。なによりこいつは隠し事をできるような器用なやつじゃねぇ筈だ。

他に好きなヤツが出来たってのは嘘だろう。
ただ、別れたいというのはどうやら本当らしい。

洞察力だとか冷静さだとか客観的思考だとか。当たり前のように会得したそういった類の能力がこれほど煩わしく思ったことはない。

理由は分からないがアンは終わりにしたいと思っている。恐らく、否、絶対に。
だったら、俺はこれ以上どうすりゃあいいんだ。

どうせ碌な男じゃねぇと悪態をつけばいいのか。
別れたくないと喚き散らせばいいのか。
鎖でもつけて繋ぎとめりゃあいいのか。

「本気なのか?」
「うん」

悪態と吐いても、喚き散らしても、鎖で繋いでも、意味なんざないだろう。

「…分かった」

俺が欲しいのはお前の心だ、なんて、死んでも口には出来ねぇが。



【ぐるり巡った想いの末路は、】

「ありがとう。ごめん」

電話越しに聞こえた#アンの声に、俺は返事を返せただろうか。



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