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▼ おかえり、ただいま

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23時。
長すぎる残業を漸く終えて一人暮らしのマンションに帰る。肩にのしかかる疲労感は相当なものなのにまだ火曜日だなんて信じられない。
コツコツと頼りない音を立てるヒールのつま先を見るともなしに眺めながら考えた。
人間はなんで週に5日も働くんだろう。
何故2日しか休みがないのか。
何故朝から晩まで働く必要があるのか。

速度が速すぎると思う。何が?世界が。世界が回るスピードが。お客様のため、よりよいサービスのためとそれこそ世界中の人々があくせくと汗水垂らして働いていて、私はそれを滑稽に思う。本当はみんなもっとゆっくりしたいに決まってるのに。

もし私に世界を作れるチャンスが巡ってきたとしたら、働くのはせめて週4にする。残りの3日は休みで、仕事は5時まで休憩は11時半から2時まで、そういう世界にしようと思う。

薄暗い地下路を抜けて、住宅街を歩く。
こんな時間だから一階の電気はもう消えている家が多くて、視線は自然と上に上がる。どっかの誰かの二階を越えて、もっと上。空には綺麗な三日月が輝いていた。薄暗いと明かりを求めてしまうだなんて虫にでもなったみたいだ。虫、きらいなのに。
うっかり蝶になった自分を想像して、一人でぶるっと身震い。リアルな方を想像してしまったからだ。口がチュルっとストローみたいなアイツの方。

「疲れた」

ぽつりと零れ落ちた言葉はひどくかすれていて、今日がまだ火曜日だという事実が重く重く圧し掛かった。


「よお」

重い身体を引きずって家に帰ると、エースがいた。
まるで自分の部屋のように転がってテレビを見ている。四角い世界の人間の薄っぺらな笑い声がワンルームに溢れていて、顔だけをこちらに向けて笑うエースに腹が立った。

「なんでいるの?」
「なんでってそりゃお前の彼氏だからだろ?」

イライラする。
返事の代わりにハイヒールを少し乱暴に脱いだ。

「お前顔色悪ィぞ。大丈夫かよ」

余程ひどい顔をしているらしい。エースは此方を見ると途端に眉を下げて寄ってくる。ただでさえ狭い玄関でエースはまるで壁のようだ。圧迫感が息苦しい。
心配してくれていることは分かるのに、頭では有難いとそう思うのに、肝心の心はこんなに優しいエースにさえズクズクと苛立った。
働いたことのないエースには、まだ学生のエースには、分からないんだ。
いくらバイトをたくさんしていたって、人よりは苦労をしていたって。
学生に何が分かる。
あんたに、何が分かる。

「なぁアン」
「平気」

「嘘つくなよ、ちょっと待ってろ、」
「平気だって。ほっといてよ!」

出て行って、鬱陶しい。
自分でも驚くほど低く唸るような声が出て、
パリン
頭の中で何かが壊れる音が聞こえた気がした。

「アン…お前ちょっと言いすぎじゃねぇか?」
「うるさい!出てってよ!鍵も置いてって、もう来ないで!」

口から飛び出す暴言に、頭の中のもう一人の自分がおろおろと戸惑う。
何言ってるの?だめだよ、やめなよ。そんなこと思ってもないくせに。

しまった、そう思ったときにはもう遅い。
はっと見上げた先でかち合った目は傷ツイタ、そう語っていて。
とても目を合わせられなかった。

「…悪ィ」

下を向いたままの私の背中に届いた声はとても悲しげで。
狭いワンルームは薄っぺらな笑い声と後悔に包まれて暗転。
靴箱の上に置かれた鍵には旅行に行った時にふざけて買ったご当地くまぽんが付いていて、私は深呼吸のように深いため息を吐いた。



やってしまった。

あれから数日。
連絡は一度もない。
自分だってバイトやなんやで忙しいくせに頻繁に届いていたメッセージもぱたりと途絶えた。

バイト休憩ー
アン何してんだ。頑張れよー
肉食いたい

会いたい

無くして初めてその大切さに気付く、なんて使い古した言葉が身に沁みる。
あれほど時間が経つのが遅いと感じていたことが嘘のように、時はあっという間に過ぎていった。疲れたとか早く週末が来てほしいとかそんなことも感じない。きっと心が止まってしまったんだと思って、心は心臓にあるのに止まっても死なないもんだななんてことを考えて零れた笑いはまさに自嘲。

エースはまるで心が読めるかのように周りの人の心の動きに敏感だ。いつもいつもバカみたいに明るく笑っているけど、本当はとても繊細。
繊細で臆病で怖がり。欲しいと思ったものは何でも手に入れる力強さを持っているのに、同時に手を伸ばすことを躊躇う弱さも持ち合わせている。エースはそういう不安定さの上でいつも笑っているのだ。

分かってたのに。
そんなエースを、私はちゃんと知っていたのに。
いつも優しくて私だけをまっすぐに見てくれて、考えてくれて。
そんなエースが私は本当に大好きだったのだ。

「…エース」

待ち望んでいた筈の週末は味気なくて無味乾燥。
ベッドにぱたんと転がるとふわっとエースの匂いがして、もう一度起き上がって倒れてみたけど今度は何も感じなかった。エースが日に日に、一分ごとに、一秒ごとに、薄くなって消えていくように思えて、止まってしまえ時間なんて。と半ば本気で願った。

エースは今頃私のことを心配しているかもしれない。きっと優しいエースのことだから私の酷い言葉の裏の裏まで考えて後悔しているかもしれない。
でもきっとエースはもう来ない。
本当はすごく臆病だから。臆病で優しいから。自分じゃ駄目だとか、自分がいないほうが私のためになるかもしれないとか。きっとそんなことを悶々と考えているんだと思う。
エースはもう来ない。少なくとももう前のような関係には戻れない。何故だか私にはそれが分かって、妙に客観的な自分がとても悲しかった。



週末が終わって数日した頃、相変わらずの長すぎる残業の帰り道で、私はまた週休3日制について本気で考えていた。世界を作り直すチャンスが私に巡ってくるとは到底思えないから、いっそのこと全世界の人間が全員でボイコットすればいいんじゃないか、とか。
世界中が休めば自ずと休みが増えるに違いない。今となってはその休日に楽しみなんてないんだけど。

じゃあ人間が生きる意味ってなんだ。
労働か余暇を楽しむことか、はたまた子孫を残すことか。
そのどれもが私には到底できそうになくて、生きてる意味が迷子。

「かみさまー迷える子羊がここにいまーす」

かーみさーまー、
見上げた空には欠片ほどに尖った三日月が浮かんでいて、私は歌うかのように高低をつけたリズムでかみさまを呼んだ。


マンションについてエレベーターを降りる。
まだ水曜日かなんて考えて余計に自分を疲れさせながら、重い重い足取りで廊下を歩く。
突きあたりを右に曲がると、

「…おう」
「エー、ス」

エースがいた。
ドアの前にしゃがみ込んだエースはもう夜は肌寒いだろうに上着を羽織っていなくて。ロンT一枚の丸まった背中はまるで捨て犬のようだ。

「…遅ぇ」

不貞腐れたようにそう呟いたエースは此方を見ようとはしなくて。不機嫌そうな雰囲気を纏っているのに、拗ねたように尖った唇が可愛くて。

「エース、ごめ、会いたかっ、」

ごめんなさい
寂しかった
会いたかった
すき
だいすき
好き
スキ

伝えたいことはたくさんあるのに、そのどれもが我先に飛び出そうと口から溢れて結局全てが言葉にならない。
涙ぐんで下を向いてしまった私を、エースがゆっくりと立ち上がって抱きしめる。

あったかい。
エースはあったかくてすごく優しい。

「アンごめんな」

アンはいつも頑張ってるのに自分はその大変さを共有してやれないから、アンにはもっと大人な男のほうがいいのかもしれないと思ったのだと、エースは私をぎゅっと抱きしめながらそう言った。

「…でもやっぱ俺、お前じゃなきゃだめなんだ」

お前が傍にいないと死ぬ。
そんなことを冗談めかして言いながら笑ったエースに、私もだよと笑い返した。

「あー腹減ったなぁ。鍵もねぇしすげぇ寒かった」
「ふふふ、そうだね。ごめんね?」

エースを背中に貼り付けたまま、鍵を開けて部屋に入る。


【おかえり、ただいま】
人間はなんで働くのかとか生きる意味とか、そんなことはよくわからないけど、

「おかえり」
「ただいま」

この暖かな一瞬のために、私は生きて働いているのかもしれない。



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