▼ 余所行きの装いを脱ぎ捨てて向き合うことを恋愛と呼ぶのです
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ネオンの灯だけが頼りの薄暗い地下階段を降りて、幾度と無く貼り剥がしを繰り返したポスターの残骸に突き当たると右へ。年季の入った濃褐色の扉を開くと、黒い猫の呼び鈴がリンと来客を告げる。
「久しぶりだね、」
サッチ、
扉を潜った客人が艶やかなグロスで笑う。
カウンター越しに此方を見たサッチが紫煙を燻らせながら笑った。
ここは繁華街の外れ。わらわらとたむろする人ごみがちょうど途切れる、そんな場所にひっそりと佇むバー。知る人ぞ知る隠れた名店。いや、知らない人は絶対見つけられない、そういう店。カウンターの上に申し訳程度に据付けられた橙色の明かりが到底広いとはいえない店内を淡く照らしている。微妙に色合いの違う褐色のレンガ壁と至る所に適当に置かれたギター。バーなのか私室なのか。或いはそのどれでもないかも知れぬ此処は時にさえ存在を忘れられたかようで。
「アンちゃんが来てくれねぇから、この店もう潰れそう」
金曜21時過ぎ。
一番の稼ぎ時に違いないのに、オーナーであるサッチは暢気に独り酒を楽しんでいる。「だからもっと来いよ」なんてへらっと笑っている辺り危機感は皆無らしい。それでも経営が続いているのは一度食べたら絶対にまた味わいたくなる極上で濃厚なビーフストロガノフが常連客の心を鷲掴みにして離さないからに他ならない。サッチが手間を惜しまず煮込んだそれは、ワインやジン等不思議とどんなアルコールとも合うのだ。まぁ離さない、と言っても宣伝どころか看板さえ出していないから知ってる人はごく一部だけど。
「サッチがそんなにやる気ないから誰も来ないんじゃない?軽いし。おっさんのくせに」
「おっさんってお前…別に客全員とぺらぺら喋ってるわけじゃねぇって。俺ってばこう見えて寡黙な一面もあんのよ?」
わずか4席しかないカウンターに腰かけて、隣に飾ってあった年季の入ったギターを撫でながら批判を口にする。口許が緩んでしまうのは、本当はいつ来ても変わらないこの店が好きだからだ。
「あーやっぱこの店落ち着くわー」
くたっとカウンターに突っ伏した私に「そりゃどうも」サッチがアルコールを出してくれる。しれっとふたつ用意されているのは当然自分用だ。
何年経っただろう。お酒を飲めるようになったばかり私が初めてあの人に連れられてこの店を訪れてから。もう考えたくもないくらい昔のように感じる。
「私もすっかり大人の女だー」
「自分で言うことかよ」
いろんなことがあった。
綺麗な赤い髪を持つあの人に心を奪われた日から、私は常に自分磨きを怠らなかった。初々しかった私も今ではすっかり大人の女性というやつで。色気を漂わせる仕草も指に施したネイルも、あの人が好む服装も。全部全部覚えた。
「珍しいな。一人で来んのとか一年ぶりじゃねぇか?」
カウンターの中で煙草を燻らせていたサッチが隣に立て掛けてあったギターを手に取ってポロンポロンと弦を弾く。
絶妙なタイミングだなと思った。丁度私もあの人のことを考えていたから。
「そうだっけ?」
「あぁ記憶力には自信あるからな」
得意げに言ったサッチは大人なのに子供のようで。
「敵わないなぁ、サッチには」
グラスに視線を落したままてへへと小さく笑ってみせた。
初めてアンがこの店に来た日のことはよく覚えている。
シャンクスに連れられてやって来たアンは、右も左も分からぬひよこのようで。そのくせに見た目だけは精一杯背伸びして。
随分似合わないことをする女だと思った。
尖ったピンヒールも緩やかに揺蕩う黒髪も甘い香りも、確かに女を感じさせるし美人ではあるけど。
「アンお前何にするんだ?」
「え、あぁえっと…」
精一杯頑張ってるのが丸分かり。そわそわとした様子も全然隠せてなくて。
「よし。じゃあ俺がお前に似合うやつを選んでやろう」
「…うん、ありがと」
あからさまにほっとした表情を浮かべたアンにシャンクスはちらりと目を遣って満足そうに笑った。
俺はそれを見て密かに眉を潜める。
どれにするかなーなんて楽しそうに酒を選んでいる横顔を見つめるアンからは、好きやら憧れやらかっこいいやらといった感情がだだ洩れていて。とにかく目の前の男が大好きなのだと全身で語っていた。
「これにしよう。なぁサッチ、アンにこれを作ってやってくれ」
「はいよ」
俺はバーテンだからな。客の男女関係なんかどうでもいいんだ。
あいつだって悪い奴じゃねぇってのは知ってるから、来るたびに違う女を連れていても、むしろよくもまぁ極上の女ばかりを捕まえられるもんだと感心していたくらいで。
いつもなら適当に話を合わせて笑ってやるけど、この日はどうもうまくいかなかった。周りには気付かれない程度のもんだろうけど、歯車がかみ合わないような微妙な感覚は結局二人が店を出るまで続いた。腰に腕を回しているシャンクスとどぎまぎしているのが丸分かりなアンを見送って、ため息。
「…ああいう子に手ぇ出すなっての」
ただの遊びならいつもみたいに遊び慣れた女にしとけ。心の中に浮かんだ考えは確かに苛立ちを孕んでいて。
初めてアンと出会ったあの日、俺はこいつに惚れたんだと思う。
純粋を絵に描いたようなアンに、まっすぐで綺麗な瞳を持ったアンに。
でもあいにくアンは客でしかも常連のお気に入り。俺が身動きを取れる筈もない。
全く厄介な男に惚れたもんだ。アンが全力で好きだと訴えても、たぶんあいつは本気じゃない。それくらいあいつはクセのある男なのだ。
何が腹立つって、おそらくこの予想は外れちゃいねぇから。
「どーすっかなぁ」
カウンターに肘を突いてぼやくように呟いた。
何をどうするのかなんて自分でも分からないけど「また来んのかねぇ、あいつら」続けて口にした言葉には、二度目を期待している自分もいて。
「俺も大概悪いオトナか」
グラスに残った酒を一気に煽った。
「で?今日はどうしたんだ?」
「あーうん。まあね」
「もしかして振られたか?ついに?」
「ぎゃあ、それ聞いちゃう?普通。あぁ分かった。だから客が来ないんだよ」
大げさに仰け反って見せるアンにはははと声に出して笑った。サイテー、アンがじとりと目を細める。そんなアンを見て、綺麗になったなぁなんて。20のアンも確かに美人だったけど、綺麗というよりはまだ可愛いさやあどけなさが全面に出ていた。それが今や色気なんておっかない武器も隠し持っていて。
「…結婚、」
する気ないんだってさ。アンがぽつりと呟く。
「そうかよ」
「他の奴探せって。俺には幸せにしてられねぇからってさ。今更じゃない?」
今更、ねぇ…
「違うだろ?」
きょとんと此方を見るアンに言う。
「あいつが本気かどうかなんて、本当はお前だって分かってただろ?分かってて何年もくっついてたのはお前で、挙句振られただの今更だのってそりゃ自己責任ってやつじゃねぇの?」
まさか俺からこんなことを言われるだなんて思ってもみなかったんだろう。突き放すような俺の言葉に悲しそうな色を湛えていたアンの瞳が一転、困惑に揺れる。
「そ、りゃそうかもしれないけど…でも私いっぱい頑張ったんだよ?」
「あいつの好きなタイプになるために?」
アンがグッと眉間に皺を寄せて俯いた。
「…今日のサッチ意地悪だ」
「数年分の説教だからな「なにそ、」いいか、まずその妙に色気づいた仕草がダメ。あとその服、背中見えすぎ。甘ったるい香水もダメだな。あとは、」
「ちょ、ちょちょちょっと待って。え?なに?え?」
カウントするように指を折ってダメなところを指摘する俺に、アンは暫くぽかんとして、それから慌て出した。
「変?だってオトナの女ってこういうのでしょ?シャンクスはこういうのが、」
「それ」
不安そうに揺れるアンの目をまっすぐに見返して、淡々と言う。
「惚れた男の為に自分を磨くってのは悪いとは思わねぇけどよ。振り向いてもらう為に相手の好みに合わせて自分を捻じ曲げちまうのはどうかと思う。っていうか全然ダメ。ホントもうダメ。最悪」
うぅだの、あぁだのと地味に悶えていたアンはついにテーブルに崩れ落ちた。
「…だって好きだったんだもん。私だけ見てほしいじゃん。特別になりたいじゃん」
突っ伏したアンがくぐもった声で反論する。
拗ねたような声色に苦笑い。可愛いやつめ。
「似合わねぇよお前には。あいつといる時のお前全然つまんねぇもん。顔色伺って、媚び売るみてぇに笑ってよ。お前はな、んな女くせぇ格好じゃなくてもっとラフなほうが似合うし、一丁前に色気出してっけどもっと肩の力抜いて大口開けて笑うほうが合ってるっての」
「でもそんなんじゃ全然女らしくないし、」
男の人はそういうほうが好きなんでしょ?
迷子のように言うアンに、俺は大袈裟に溜息をついてみせてからカウンター越しにちょいちょいと指を動かしてアンを呼ぶ。
怪訝な顔をしながらも恐る恐る近づいてきたアンの耳元で囁いた。
「…いいかアン。恋愛ってのはな、裸でするもんなんだ」
「は?なにそれ?」
こんだけ説教しといてオチがセクハラとかありえない!
真っ赤な顔をして叫ぶアンに俺はゲラゲラと腹を抱えて笑った。
【余所行きの装いを脱ぎ捨てて向き合うことを恋愛と呼ぶのです】
つまり俺が言いたかったことはこういうことだけど、きっとアンにはまだ分からねぇから。まずはこうやってぎゃあぎゃあ叫んでるアンを見て楽しむとこからはじめようと思う。
独り言
サッチってヒロインがどんなバカをやっても失態を晒しても丸ごと受け止めて笑ってくれそうじゃないですか、とか言う謎の問いかけ。
つまりそんなサッチにロックオンされたら逃げられないに違いなくて、簡単に言うとサッチにロックオンされたいってことですよね。←コラ
この後の妄想:たぶんサッチは美人でセクシーになったアンさんは大歓迎なんだろうけどそれが他の男の為ってのが非常に気に食わない。この後そりゃあもう壮絶な矯正が入ると思います。俺色に染めちゃうわけですね、独占欲の塊か、塊か!
終わります←