「なまえ」
どんな雑踏の人混みのなかでもなまえをすぐに見つけ出してしまうのはもう俺の特技なのかもしれない。名前を呼べば、キョロキョロとあたりを見渡して俺を見つけた瞬間パァッと花がほころぶように笑った。その顔が愛おしくてたまらない。ニヤけてしまいそうになる顔を誤魔化すように小さく手を振る。
「三ツ谷」
「悪い。待ったか?」
「ううん、今来たとこ」
恋人同士なら誰もがしたこのあるこのやりとり。それに同時に気づいて、目が合うとどちらからともなく笑いあう。高校生にもなり交際期間ももうすぐ2年近くなるが、倦怠期なんてやってくる気配もない。それどころか日に日に愛しさは増すばかり。まぁ、今だに三ツ谷呼びなのは考えものなのだが。結婚したら自然と名前で呼ぶだろうしいいか。なんて浮足だったこと思ってしまう始末。俺も含めていくらカッコつけようが男はいつだって単純で馬鹿なんだ。
「…」
「なまえ?」
「や、なんでもない」
みょうにソワソワしてるなまえに小首を傾げる。ジッと目を見るとゆらゆらと視線を彷徨わせた。それはどこか昔を思い起こす。付き合った当初はソワソワどころか、固まるわ、呼吸困難になるわで大変だった。なんなら付き合う前から心臓が爆発するだの訳の分からないことを言って告白すらさせてくれなかったのが懐かしい。
髪は切ってないし、エマにヘアアレンジをしてもらったわけでもない。学校帰りだからいつも通りの制服。バレないように観察してみても、当の本人が落ち着かない所以外は特にいつもと変わったところはない。かと言ってチラチラとこちらを覗き見るなまえに「なんかあった?」と聞くのは野暮な気がした。
あー、でも逆に見つめ返して照れさせるのもありかな。なんてイタズラ心が動いてなまえの顔を覗き込もうと近づいた瞬間その違和感に気づく。
「ん?」
「な…!三ツ谷、近い」
「いや、チラチラとこっち見てっから」
「〜〜ッッ!別にちょっと見てただけ、」
そのままなまえの髪を耳にかけながら小さなその耳をなぞる。触れたら面白いくらい耳まで赤くなるのは付き合った頃から変わらない。けれど、あの頃と違ってなまえから香る男物の香水の匂い。それも俺のものじゃないやつ。しかし、こっちが照れるくらい全身から三ツ谷が好き!!と溢れ出るようななまえが浮気なんて出来るとは思えない。
「ふーん」
「み、三ツ谷?」
不安気に揺れる瞳がこちらを見上げる。そういえばエマがドラケンにヤキモチ妬いてほしいと喚いてたっけ。どうせなまえのことだからエマやユズハあたりに巻き込まれたんだろうなと察しがついた。さて、どう料理してやろうか。
「なまえ、」
「? ひゃ!な、なに!?」
「なんかいつもと違うから」
「う、え、いつから気づいて…」
にこやかな笑みを浮かべたまま、もう一度首筋に顔を近づける。分かっていても違う男の香りがするのは腹が立つ。慌てて首筋をおさえるなまえにその苛立ちが顔に出ないようなるべく優しげな顔を作り自然を装う。
「さっき。香水?」
「うん、」
「新しいの買ったの?」
「いや、あの」
「何かなまえっぽくなくね?」
「その、…男の子のやつ、で」
「男?珍しいじゃん。なんで?」
わざと男物の香水をつけて俺の様子を伺ってたこと全て分かって聞く俺は相当タチが悪いのかもしれない。だけど巻き込まれたとはいえ、俺のことを試そうとしたからにはそれなりの責任をとってもらわなきゃ気が済まない。
「それは、あの、」
「ん?」
「み、三ツ谷に…」
「俺が?なに?」
「だから、三ツ谷に、やきもちを…」
今度こそ抑えきれなくなって上がる口角。ようやく俺の誘導尋問に気づいたなまえは顔を真っ赤にしながら信じられないとでも言うかのように、目を見開いて口をパクパクと開いた。
「ウソ、三ツ谷、全部、気づいて…」
「あー、うん。まぁ」
「〜〜!!」
「ごめんて」
みるみるうちに真っ赤になって辿々しく喋るなまえがあまりにも可哀想になり素直に白状する。涙目になってプイッとそっぽを向くなまえに慌てて謝るが、よほど恥ずかしいらしく視線は合わないまま。
「三ツ谷のばか。もうやだ」
「悪かったよ。可愛くてつい」
「…」
泣きべそかくなまえに、やりすぎたなと少し後悔する。悲しいかな。男とは好きな女の子をからかいたくなるもの。高校生にもなって大人げないのは分かっているけれど、その反応が可愛くて仕方ないのだ。本当に反省しているのかとジトリとこちらを睨む姿も可愛いなぁと思うけどそれを言うとまた顔を真っ赤にして怒るだろうから自重しておいた。
「ごめんな。エマとかにやられたんだろ?」
「そう、だけど。…わ、私だって三ツ谷のことギャフンと言わせてやりたかったの」
「あー、そんなこともあったな」
「前みたいに返り討ちに合わないもん」
「まだそれ言うか」
いつかのなまえの家の前での出来事。マイキーに教わった殺し文句を言ったはいいが、なまえのほうが俺からの返り討ちにあったと自宅に逃げ帰ったあの日のことをいまだに根に持ってるらしい。しっかりと俺にもダメージを与えていたことはカッコ悪いし恥ずかしくて言ってないし、今後墓場まで持っていくつもりだ。
「ヤキモチ妬いて欲しかった?」
「…あわよくば」
「ふは、素直。でも、お前知ってんだろ。俺がなまえ以外興味ないの。2年付き合って流石に分かってきたんじゃね?」
「それは…!」
「んで、なまえも俺しか見えてないのは知ってるし。ま、だからといって絶対妬かないとは言わねぇけど、」
途中で話をやめた俺を不思議そうに見上げるなまえの小さな手を取る。そしてまた先ほどのように耳元に近づいて、ひそりと囁くように想いを告げる。
「心配しなくとも、とっくの昔からお前の虜だよ」
熱を帯びた俺の瞳がなまえの大きな瞳を捉える。言葉の意味を理解するのが時間がかかるのか、固まるなまえがぱちぱちと長いまつ毛を揺らすのがよく見えた。あと数秒もすれば酸素がまわってゆっくりと脳が回りだすだろう。そして意味を理解して顔を真っ赤にして逃げるんだろうなと手にとるようになまえの行動パターンが読めた。だからこそ先手を打って逃げられないようにと捕まえたままの手。
「ぐぅ」
「はは、なんだその声」
「三ツ谷が嬉しいことばっか言うから、心臓もたないの」
「お、心臓爆発から成長したな」
からかうようにそう言えば、また拗ねて怒るかなと思っていたのに「もう、意地悪しないで」と俺の手をぎゅっと握り締め、目を潤ませながらボソリと言ったその一言に思わずギャフンと言ってしまいそうになった。
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