雪のような白い肌をより際立たせているその漆黒の髪が好きだった。顔にかかる髪を耳にかける仕草も、クスクスと笑うときに揺れる柔らかさも。本を読むなまえを邪魔するように軽く髪をつんつんと引っ張ると「もう何?」と俺の小さな悪戯に困ったように笑う顔が好きだった。
「私、彼氏が出来た」
俺の好きな艶やかな長い黒髪を揺らしながら、そう告げられた時、鈍器で頭を殴られた様な衝撃を受けた。
あまりのことに返事も出来ずに固まってしまったのだが、衝撃発言をした張本人は返答がないことにさして疑問に思うことなく、また視線を本に戻した。どうやら会話として話し出したのではなく、単純に事後報告をしただけのようだった。
とうの昔に恋心を抱いてる黒尾と違ってなまえは恋愛に疎く、黒尾の片想いなんか知るよしもない。むしろ自身の初恋を知らない。異性に対し興味を一切持っていないことは長年一緒にいる黒尾が一番身に染みて分かっていた。
それでもなまえの隣にいるのは自分だと漠然と思っていた。小さな頃からの幼馴染。家は隣同士で家族ぐるみの付き合い。小学校高学年になって、学校では男子女子と別れて遊ぶようになっても家に帰れば今日のように相変わらず一緒にいることが多くて、なんならなまえの友人の中で一番仲が良かった自信があった。だからこそ自分がいつかその役をするのだとそう思っていたのだ。
「…へぇ」とようやく返事をしようと出した声は上擦って震えていて、ドクドクと心臓が不安に駆られ、部屋を冷やすクーラーの音だけがやけに大きく聞こえてた。
___
「どれだよ、お前の彼女」
「ほら、あの髪長い子」
「お前相変わらずロング派だなぁ…って、めっちゃ美人じゃん!」
「だろ〜」
なまえから衝撃の発言を聞いてから数週間。我が物顔でなまえの隣を歩くようになった2つ上の先輩の男の顔を嫌でも覚えてしまった。しかしそいつは黒尾に気づきもしないで友人達と階下にいるなまえを見ながら自慢げに話す。
長年の片想いがあっけなく散ったわけだが、思ったよりも傷心することなく日々を過ごしている。全く落ち込まない訳ではないし、実際にこうしてなまえの元に当然のように駆け寄る姿を見れば腹も立つけれども。
あの日の帰り際、なんとか平然を装ってどんな奴なのかと聞いて返ってきた答えは「よく知らない人」だけだったから。またなまえの興味本位、知的好奇心の末の行動だと黒尾は分かってしまったのだ。
「なまえちゃん」
「先輩、こんちには」
階段を駆け降りた男の手がそっとなまえの頭を撫でる。黒尾のような悪戯をする荒っぽい手つきじゃない。「ほんとに髪綺麗だね」と微笑みながら愛しむようなその手つき。その行為の意味、男の下心なんかに気付きもしないで拒否することもなくキョトンとした顔で不思議そうに見上げたなまえとぱちりと目が合う。
表情を変えることなく、なまえから目を逸らして2人の横を通る。わざわざ邪魔するような嫉妬じみたことをするつもりもない。なまえから視線を感じた気がしたけど2人の方を見ることなく、下駄箱へと向かった。
どうせなまえのことだ、長続きせずに別れるに決まってる。それでもわざわざにやけた男の顔も、何も分かってないなまえのことも見るのが嫌だったから。
「クロ待って、一緒に帰ろ」
靴を履き替えてさっさと帰ろうと足早に校門へと向かうと後ろから声をかけられる。振り返らなくても相手が誰だか分かっていたけど、ゆっくりと声の方へ顔を向ければ、珍しく乱れた髪のなまえが駆け寄ってくる。
先程見かけた時は鞄を持ってなかったので、教室まで走って取りに行ってから急いで黒尾を追いかけてきてそうなったようだった。いつもであればその髪に触れて「ボサボサ」なんて軽口を叩きながらそっと直してやるけど、あいつが触ったその髪に、あいつも好きだと話したそれに触れるのが気に入らなくてまた視線を逸らす。
「お前、彼氏は?」
「…最近クロと話してない」
視線は合わせないままだが、なまえのペースに合わせるようにゆっくりと歩く。他人から聞いたら会話が成り立っていないように聞こえるが、黒尾はなまえの言うことに覚えがあった。彼氏が出来てから何となく距離を空けていたから。
「そう?この間家に行ったじゃん」
「ずっと研磨とゲームしてただけだった」
どうせ気にも留めてないと思っていたのに。基本的に他人に興味がないはずのなまえが拗ねたような反応をするから、つい嬉しくなって素知らぬ顔で答えた。
「そりゃクロがさ、気を使ってそうしてくれてるのは分かってるんだけど」
「…」
「今までずっと一緒にいたのに、急に距離が空くと…寂しい」
「… なまえは我儘だね〜」
「クロ、茶化さないで」
「はいはい、黒尾お兄さんが研磨もなまえも相手したあげるから寂しがんなよー」
「…寂しいなんて言うんじゃなかった」
なまえはそう言ったけど、これっぽっちも彼氏に気を使ってなんていない。単純にムカついてただけ。嫉妬してたから離れただけ。どうせ一時の気まぐれで知的好奇心が満足したら別れると思ったけど、そのまま好きになって俺から本当に離れていくと思ったら怖くなっただけ。俺がこんなに小さな人間だなんてきっとなまえは知ることはないんだろう。
なまえの言う寂しいは恋心なんて良いもんじゃない。小さな頃から一緒に育ったからきっと家族愛とかそういう情に近いんだと思う。でも今はそれでいい。それでなまえを繋ぎ止めれるなら家族の延長上の幼馴染で十分だ。
「髪」
「?」
「髪切ったら?もう熱いし、サッパリしそう」
「そうかな」
「昔からショートしたことなくね?ずっと長いじゃん」
あーあ、嫉妬じみたことをするつもりなんて無かったのに。ただの幼馴染が、告白する勇気もないやつが一丁前に嫉妬なんて馬鹿らしいのは分かっていた。それでも他の男に触られるくらいなら、切ってしまった方がいいなんて思ってしまう。なまえが彼氏より当然のように俺を優先するから調子に乗ってそんなことを口走ってしまう。でも少しくらいの独占欲は許してほしい。
___
「おはよ」
「え、お前髪」
「うん、切った」
「何で急に」
「? クロが切った方がいいって言ったじゃん」
「そうだけど、」
週が明けて研磨と同じかそれより短く髪をばっさりと切ったなまえに黒尾はあんぐりと口を開ける。まさか自分の嫉妬や独占欲から出た言葉で本当に髪を切るなんて思ってもなかった。
女子って髪の毛大事じゃないの?しかもあの艶やかな美しい髪を30p近く切ったのだから尚更。本人はさして気にしてないようだったが、黒尾は急に罪悪感に襲われる。
「…似合わない?」
「いや、似合います」
自分の安易な発言で髪を切ったなまえに対し、似合わないなんて口が裂けても言えなかった。正直、なまえの長い髪も好きだったけど短い髪を耳にかけてる今の姿ももちろん可愛い。惚れた弱みなのできっとなまえが何をしたって可愛く見えるのだ。まだそれを伝えるつもりはないけれど。
「何か無理矢理言わせたみたいでやだ」
「ふは、可愛い可愛い」
「クロが私の事そうやって子ども扱いするのもやだ」
「大人の女は興味本位で彼氏なんて作りませーん」
「…」
なまえのムスッとした顔に不謹慎ながらも自然と笑いがこみあげてくる。
むくれてそっぽを向いてしまったなまえの後ろ姿を見て、彼氏には悪いことをしたなと少し反省した。好きな子が急に髪を短くすればきっと驚くだろう。でも髪が綺麗だと褒めたあいつより俺の言った些細なことを優先するなまえの行動に優越感が否めないのも事実だから本当は少しも反省してないのかもしれない。
雪のような白い肌をより際立たせているその漆黒の髪が好きだった。名前を呼べば絹糸のような艶やかな長い髪をなびかせて振り返る姿が好きだった。所謂ロング派な訳だけど、今はお預けにする。いつか自分が我が物顔でなまえの隣に立てた時に「髪伸ばして」と言ってみよう。その時に目いっぱいの愛情を込めてその髪に触れてみよう。
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