支度中と書かれた看板を見つつも、扉を開ける。そういえばこの扉開けるのは初めてかも知れない。いつもは無遠慮な仲間たちと来るので、ガラガラと勢いよく開いた扉に気にせず入っていくのだ。
しかし、今日はあいにく私1人。おずおずと遠慮がちに開け、ひょっこり顔だけ出して中を覗いた。こちらに気づいた店主がにっこり営業スマイルをみせた。
「おー、いらっしゃい」
「お邪魔しまーす」
変に緊張してたのは私だけだったらしく、治は調理の片手間「そこ座って」とカウンター席をクイっと顎で指し示す。誤魔化すように、こちらも声を明るく張りながら得意の営業スマイルを向けた。
「俺か飯かどっちがええ?」
カウンターに座るや否や、治はそう言った。にっこり笑う顔をジィッと見上げる。
「…侑、じゃないよね?」
「なんやねん。渾身のボケを殺しよって」
「いや、そんなしょうもない事言うのは侑かと思って」
「お前色々失礼やぞ。俺にもツムにも」
失礼を承知でまじまじと見てみると、やっぱりそこにいるのは治だった。他の人は見間違えるかも知れないが、一応3年間バレー部のマネージャーを務めていた私が侑と治を間違えるなどといった初歩的なミスをするはずは無い。
ましてや3年間ずっと治に片思いしてたのだ。しょうもないと言ったのが気に障ったらしくジトっと眠そうな目で睨まれた。あー、この目が好きだったなぁと思い出が蘇ってくる。
「じゃ、メシで」
「はいはい。せやと思っとったわ」
冗談とはいえ、私が治を選べるわけがない。社会人になって早数年。流石に今でも片思いしてるわけじゃないけれど、2人きりと言う空間は少し緊張してしまうから。同じ顔の侑とはサシ飲みしてもなんとも思わないのに。
仕草とか喋り方とか治の一つ一つにドキッとしてしまうのは、あの頃の秘めたままで告げることなく終わった恋の後遺症なんだろう。
玉砕覚悟で告白しとけば良かったとは思わない。恋愛より友情をとったわけじゃなくて、単純に私の青春を汚したくないからかもしれない。自由にできる大学時代も楽しかったけれど、あの部活ばかりの高校生活は思い出すだけで胸が熱くなる。
でもその分、キラキラとしたあの日々は余計に今の汚れた大人になった自分を浮き彫りにさせていく。
「ほい、新作」
「わー!美味しそう」
口ではそう言ったが、本当はお腹なんて減ってなかった。私が食べやすいようにといつもよりも小さめのサイズに握られたおにぎり。「食えへんかったら持って帰ってもええから」と少しだけ困ったように笑う治に、余計に気を遣わしてしまっているなと申し訳なくなる。
この様子じゃ侑から全部聞いてるんだろうな。そもそも、そうじゃなければ急に『新作できたから食いにきて』なんて連絡よこさない。最初の冗談も私を元気づけようとしたものなのかもしれない。
仕事も行き詰まって、なんとなく付き合った彼氏にプロポーズされ、そろそろ結婚適齢期だしなぁと悩んでいたら浮気されていて。やってられなくなって侑に愚痴ったのは先月のこと。あれから歯車が狂い出していった。
何してもことごとく上手くいかなくなった。彼氏のこと本当に好きかと聞かれたら、正直即答はできない。でも浮気相手が私の親友だったことは私の心を抉った。仕事が上手くいかなくて結婚に逃げようと思ってた自分がいて恥ずかしくなった。気づけば食欲もないし、寝ようとしても眠れない。どんどんと心と身体が病んでいくのが自分でも分かった。
「…前に、何でおにぎり屋なんって聞いてきたん覚えとる?」
「あー、店出す時ね」
「人生最後の日、何食いたいかなって考えてんけどな。肉とか寿司とかそうゆう誕生日とかにでる豪華な料理を一通り思い浮かべてみたけど、どれもピンとこなくて…。でもふと、マネの作ったおにぎり食いたいなぁって思ってしもてん」
マネと呼ばれたのは何年ぶりだろうか。あの頃の青春の匂いがする。私が一番輝いてた日々。バレーを辞めて飲食業につくことは高校時代から知っていた。だけど自分のおにぎりが発端だったなんて、これっぽっちも知らなかった。
「俺だけにこっそり大きいのくれとったん結構嬉しかったんやで」
「そっか、気づいてたんや」
「せやから、おにぎり屋ええなぁって」
あの大きな炊飯器を開ける瞬間が好きだった。ほかほかの蒸気と、つやつやと光るお米。大袈裟だけど宝箱を開けるみたいなんて思っていた。人数分のおにぎりを作るのは大変だったけどやりがいがあった。
いつもバレない程度に少し大きめなおにぎりを治の為に用意した私の精一杯の愛情表現。侑にはバレていて、ぶーぶーと文句を言われたけど「塩結びに文句つけるやつに言われたない」と言い返してたっけ。
「…おいしい。おいしいね、」
「そらよかったわ」
ほかほかのご飯が炊ける匂いを思い出すと急にお腹が空いてきた。久しぶりの感覚に少し驚く。治の作ってくれたおにぎりを口にすると、ポロポロと涙が落ちた。自分でも悲しいのか、なんなのか分からないけど止まらなくなった。
いい大人だからと気丈に振る舞って、もう何年も泣いた記憶はない。浮気現場を見た日も、上司に怒鳴り散らされた日も涙ひとつ流さなかったのに。いや流せなかったのか。もっと頑張らなきゃ、私が我慢すればすむ話だから、落ち込んでる暇なんかない。そう言い聞かせて、自分自身でずっと私を苦しめていたんだ。
治のあったかいを食べたら、張り詰めてた緊張が嘘のようにとれてようやくホッとした。それは母親に抱きしめられて安心したように泣き喚く子どものように。
「お前は昔っから限界来るまで溜め込みよって」
「そん、なことないっ…!」
「嘘つけ。侑の元カノにいじめられてた時も何も言わんかったくせに」
そういえば当時の侑の彼女のグループに目をつけられたこともあったな。呼び出されてのこのこ付いて行ってる最中、治がその女子達に向かって飲んでたお茶を渡り廊下の2階からぶっかけたっけ。
「あー、悪いなぁ」と全くもって悪いと思ってなそうな治と、隣で笑いを我慢する角名がなんとも対照的だった。後日お礼を言えば「マネをいじめるクソ女と片割れが付き合ってるのが気に食わんねん」と恥ずかしそうにそっぽ向かれた。
あの日の冷たいペットボトルのお茶じゃなくて、暖かいお茶を湯飲みでそっと出してくれた。昔から不器用な優しさが私をいつも助けてくれる。
「治は昔からずるいなぁ」
このままだとまた好きになってしまいそう。それが嫌で治以外の人をずっと好きになろうとしてきたのに。今更いい大人が見込みのない片思いを再スタートさせてしまうなんて。
「部活で恋愛禁止ってルールあったやん?」
「うん」
泣きながら完食した私に向かって急に昔話を始めた治。お茶を啜りながら相槌を打つ。部活の恋愛禁止はむしろ私にとって都合が良かった。まぁ侑あたりは破ることも多かったし、角名なんかも上手いことやってたので全員が守ってはいなかったけれど。
「あれ、卒業したら適応されないって知っとった?」
「そりゃ、部活してないんだからね」
「せやからいい加減、俺にしとかへん?」
「へ」
空っぽになったお皿を片付けながら、しれっと治が言った。また最初の冗談かと思うが、治の目は私をまっすぐ見ている。バレーや料理してる時の真剣な顔。治の言ってる意味が分からない年齢ではない。思わず固まってしまう私に「もっかい聞くわ」と言葉を続けた。
「俺も飯もお持ち帰りできるけど、どっちにする?」
「あの、どっちもは有り…?」
「フッフ、当たり前やん」
後日付き合うことを侑に報告したら「は?やっとくっつきよったか」と呆れながら笑われたのが治は心底腹たったらしく、久しぶりの目の前で繰り広げられる双子乱闘に声を出して大笑いした。