「なまえさーん!私、午後休なので残りお願いしますぅ。メール入れてるんで読んで下さぁい」
同期と「お昼なに食べよっか」と財布をもってルンルンとしてた時、可愛いらしい女子を体現したような後輩に声をかけられる。丁寧に巻いた髪も、完璧なメイクも、爪先まで手入れされた指もいつも凄いなぁと同じ女性として素直に感嘆する。
でも私だって今日は負けてない。昨日はスペシャルケアのパックもしたし、ネイルも塗り直したし、新発売のリップもよく顔に馴染んでる。おろしたてのスカートも靡かせたくて、つい小走りになるくらい。張り合う年齢ではないけど、今日の私はいつもよりちょっと自信があったりする。
「うん、分かった。気をつけてね、お疲れ様」
「お疲れ様でしたぁ」
猫撫で声に若いなぁと思いながら、にっこりと笑みを返して手をふり返したのが45分前のこと。早めに戻ってメールをチェックしたら、先ほどまでのうきうきわくわくの楽しい気持ちが弾け飛ぶのは一瞬だった。
「なまえ、なまえ顔!顔やばいって」
隣のデスクに座った同期に声をかけられてハッとする。多分、般若のような顔をしてたのだろう。後輩からのメールに書かれた仕事量に目眩がする。いや午後休や有給をとることは構わない。でもこれ残しておく仕事量じゃないよね。なんなら昨日までの仕事すら混じっていてどう考えたって残業コースに顔が引き攣る。
「…これ、私の指導が悪かったのかな」
「いーや。なまえは甘いとこあるけど言わなきゃいけない事は言ってたし、これはあの子の資質かなぁ。手伝うから転送して」
「ありがと〜〜。今度呑みにいこ、奢る!」
私のパソコンを覗き込むとデスクチェアを転がして自分の席に戻って行った同期の一声に、神様かな?と思わず拝んでしまう。
と同時に慌ててスマホで恋人に「ごめん、今日遅くなるかも」と連絡を入れた。せっかく今日はお互い早く仕事が終わって会えるはずだったのに。不幸中な幸いなのはどこかディナーに行く予定じゃなかったこと。もしそうだったらデスクに頭打ちつけてた。でもさっきまでランチしながら今日作ろうと教えてもらったおすすめレシピは水の泡だ。あーあ、嫌になっちゃう。
始業開始直前『わかった。無理すんなよ?終わったら連絡して』その連絡だけで胸がいっぱいになる私は単純すぎるのかもしれない。スタンプだけ送ってスマホをしまう。
「なまえがダメンズの呪いが解けてよかったわ」
「それは言わないで」
ほころんだ私の表情に同期がニヤニヤと笑った。悲しいことに、今までこれでもかというくらいのダメ男に引っかかってきた私。現在お付き合いしてる三ツ谷の気遣ってくれる言葉だけで感無量になる。そういえば、遅くなると連絡したら『俺の飯は』とキレ気味に連絡してきた人もいたなぁ。
私の男の趣味が悪いのか、それとも私がダメンズメーカーなのかと思ってた矢先に三ツ谷のおかげでその呪縛から解き放たれた。バンドマン、お笑い芸人、舞台俳優、画家もいたっけ?無意識に夢追い人に惹かれては悲しい結末になるので、最初は駆け出しデザイナーと聞いて内心またダメンズかなぁと思ったことはまだ三ツ谷には言っていないし、今後言うつもりもない。
「終わったぁぁぁぁ」
「お疲れー。お礼は明日でいいから早よ帰んな」
時計を見ると19時30分。二時間の残業で済んだのは気合と隣の同期のおかげである。ありがとうとお礼を告げて、上着と鞄を引っ掴んで駆け出すとスカートがひらひらと揺れた。うん、やっぱりこのスカート可愛い。
急いで帰れば20時には着けそう。でも今からじゃ凝った料理も作れないな。手堅く生姜焼きと、あと茄子があったから茄子の煮浸しに、昨日の残りは…と脳内で今日の献立を考える。これなら買い物行かなくて良さそう。そういえば、買い物行くと好きなもの入れるだけ入れてレジのところでお金払わずに居なくなる人もいたなぁ。
その前に連絡しなきゃとスマホを操作する。定時で一度確認した時は『俺は予定通り早く終わりそう。先帰ってるから迎えに行く』と連絡が来ていた。このおかげで頑張れたと言っても過言ではない。『終わった』と連絡を入れて、50分には駅につきそうと文字を打ってる最中に電話が鳴る。
「もしもし、」
「おー、お疲れ」
「ごめんね。今、会社出たから電車間に合えば50分には着くと思う」
「あ?迎えに行くって言ったじゃん」
「へ?」
てっきり自宅の最寄駅に迎えに来てくれると思ってた。数十メートル先に車にもたれ掛かってスマホを耳に当てる三ツ谷を見つけると小走りだった足が止まる。
小さく手を振ってくれる三ツ谷に嬉しいと思う反面、時間ないから駅のトイレでサッと化粧直しするはずだったことを思い出してサァーっと血の気が引く。いや、定時でトイレ行った時そこまでメイク崩れてなかったはず。ああでもリップだけでも塗り直しておけば…とぐるぐると頭の中で後悔がよぎる。
「お疲れさま。乗って」
「あ、ありがと」
「ん?」
「執事教育とか受けてたの…?」
「なに馬鹿言ってんだよ」
私がおずおずと近づくと、自然な流れで鞄を受け取られ、これまた自然に助手席の扉を開けられる。しかもこれが様になるんだから余計に頭が混乱した。私は今までこんな扱いされたことないし、なんなら運転して迎えに行く側だった。どう振舞っていいかわからず、じぃっと三ツ谷を見て執事なの?と聞けばケラケラと笑われて扉を閉められた。え、結局どっちなの。
「どっか寄るとこある?」
「んーん大丈夫。あ、隆くんは夕飯ってもう済ましちゃった?」
「いや、飯はもう作った」
「…作った?えっと、食ったじゃなくって?」
「前に食いたいって言ってたやつな」
さっき一生懸命今日の献立を考えたが、よくよく思えば三ツ谷が先に食べてる可能性もある。聞いてみると予想しない答えに疑問符でいっぱいになった。いや料理は出来るのは知ってたけど。私の方が帰りが早いからいつも私が作っちゃう。翌朝はよく三ツ谷がちゃちゃっと作ってくれる。とはいっても朝はパン派なのでそんな凝ったものが出てくることはないし、コーヒーを淹れてくれるだけで有り難かったのに。
「…」
「どうした?」
「幸せを噛みしめてる…」
「ふは、何だそれ」
急に押し黙った私に、運転しながらチラッと視線をよこす。流石に手を出してくる男はいなかったけど、友人に「そんな人早く別れな」と言われる人ばかりと付き合ってきた私でも三ツ谷がとんでもなくいい彼氏だということが分かる。今までの残念すぎる恋愛に神様が心配して三ツ谷と出会わしてくれたのかもしれない。
「隆くんが最高の彼氏すぎて」
「お前なぁ…」
「だって隆くんと話してたら、疲れ吹き飛んじゃった」
信号待ちで止まった瞬間、へらへら笑ってそう伝える。ハンドルから離れた三ツ谷の手が私の後頭部を掴む。グイッと強引に引き寄せられたのに、触れた唇はあまりに優しくてそのギャップに余計に胸が高鳴る。
「ん、俺も疲れ吹き飛んだわ」
「!」
「…続きは家、帰ったらな」
にっと笑う三ツ谷に頷くしか出来なくて、そのあと「そのスカート可愛いな、どこの」とか聞かれたけど、上手く答えられなかった。家に帰ったら帰ったで、お風呂は洗ってあるし、料理は美味しいしの至れり尽くせりに参ってしまいそうになる。
「ねぇ私、甘やかされてダメ人間なりそう」
「好きだから甘やかしてんの。だから素直に甘えとけー」
「それ反則」
「じゃあ仕事頑張ったご褒美いらねぇ?」
「…い、いる」
「じゃあはい、ご褒美……なんつって」
両手を広げる三ツ谷に躊躇する。その意味が分からないわけじゃないけれど、甘え慣れてないからすんなりとその腕に飛び込めない。目が合うと「ん?」と微笑むから逸らせなくなって逃げ込むようにその腕の中に飛び込んだ。
「あの、そろそろ」
「んー、俺も頑張ったからご褒美もうちょっと堪能させて」
ぎゅうっと抱きしめられながら、この人と別れたらもう一生誰とも付き合えなくなりそう…なんて恐ろしいことを思ってしまった。私を心配した神様はとんでもない人と巡り合わせてきたらしい。
「このままだと離れられなくなっちゃう…」
「そうなったら最高なんだけどな」
車の中で言ってた続きを早くして欲しいことなんて、とっくに三ツ谷にはバレてるんだろう。怪しく笑う三ツ谷を見てられなくなってまたその胸に顔を埋めた。