「…はい」
黒尾を見上げたなまえは、親に悪さしたのがバレた時のような決まりが悪そうな顔。淡々とした性格の割にこうゆう時に顔に出やすいのは本当に弟の研磨にそっくりだと黒尾は思う。
「俺が言いたいこと、分かってんな?」
「おはようございます」
「はい、おはよう。でも、挨拶の前に言うことあるよな」
「ゴメンなさい」
昨日、口を酸っぱくして言ったがやはり無理だったらしい。チュンチュンと鳥のさえずりが心地よい朝の訪れを教える中、黒尾は目の下にはうっすらとクマができた爽やかな朝とは程遠いその顔を見つめてからハァと小さくため息をついた。
「出せ」
「ク、クロ。あの、あとちょっとで読み終わるんだけど」
「没収」
「うぅ、」
昨日発売されたなまえの好きな作家の待望の新刊。目をキラキラさせて購入する姿は可愛いかった。可愛かったけども。案の定、夜な夜な読み耽ってたようだ。今日は休みでなまえも高校生でいちいち口出すのは馬鹿らしいけれど、こいつのあとちょっと程信用ならないものはない。平気でこのまま二徹三徹しかねない。早く出せと言わんばかりに威圧的に黒尾が微笑んで手を出せば、あからさまにがっかりとした顔で肩をすぼめながらおずおずと読んでた本を渡した。
「クロいつ帰るの?」
「お前が寝たの確認したらな」
「…」
有無を言わせない黒尾の様子に諦めたようにとぼとぼとベッドに向かう。あまり喜怒哀楽が表情に出ないなまえであるが、黒尾が布団をかけながらそう返すとあからさまにムスッと拗ねた顔に変わる。しかし悪い事したと自覚はあるのか、反論はせずにプイっとそっぽを向いた。
その姿さえ可愛くて見えるのは惚れた弱みなのか。ニヤけてしまう口元を誤魔化すように「いい子にねんねすんだぞー」とふざけたフリして頭をぽんぽんと叩く。嫌そうに手を振り払われたけど、おかげでまた黒尾の方へと顔を向けた。
しかし、その目は明らかに不服そうに黒尾を見る。研磨同様、身体が少し弱いなまえは徹夜とか不健康な生活から体調を崩す。少しくらいウザがられてもなまえがしんどい思いをするよりはマシだと思いながら乱れた前髪を今度は優しく直した。
「ぶーたれた顔」
「そりゃ、私に非があるのは分かってるけど。…でもクロが子ども扱いするから」
「はいはい。学校で図書室のお姫様なんて言われてるとは思えねぇわ」
「そんなの知らない。別に私は本の虫でも図書室の亡霊でも構わないもの」
「亡霊て…。でも迎えに行かなきゃずっといそうだもんな」
「…ちゃんと帰れる」
自信なさげに語尾が弱くなっていくなまえに黒尾はケラケラと笑い出す。音駒に入ってから本好きが影響して図書室に入り浸るせいで『図書室のお姫様』なんて異名つけられた。きっとそれは高嶺の花のようななまえを称えたもの。中身はただの本好きの後先考えない奴なんて同級生たちは知る由はない。さらさら教える気もない。
いつも部活終わりに図書室を覗くと大抵1人本を読んでる。黒尾が「帰んぞー」と声をかけてようやく見てた本を惜しむようにパタリと閉じるのだ。黒尾が行かなきゃ朝まで読んでてもおかしくない。いやその前に警備員か先生に追い出されるだろうけど。
「せめて自己管理くらい出来るようにしろよ?」
「大丈夫」
「何を根拠に言ってんだか」
黒尾がはぁやれやれ…とでも言うように大袈裟に肩をすくめる。でも口ではそう言ってもこのままの関係を望んでるのは黒尾自身だ。なまえがいつか離れてくのは仕方ないにしても自分から離れる気はない。この先も頼られるのは俺1人だけでいいとも思う。
「クロに貰ってもらうもん」
「…は?」
「クロに貰ってもらうの」
「いや、聞こえなかったんじゃなくて!…え、なまえはそれでいいん…?」
結婚という言葉が頭をよぎる。ついでにリーンゴーンと盛大な鐘の音と共に。まさか自分がなまえに少しでも恋愛対象として見られるなんて思いもしてなかった。いや確かになまえの面倒は見続けてきたものの、本人からは「クロ、お母さんよりうるさいね」とボヤかれる始末。頼られるなんてそんな良いものではなく頼れる幼馴染より口煩いオカンと認識されててもおかしくなかった。
こいつにとったら奥の手くらいの感覚かもしれないが、ここで盟約を交わしておけば後々有利な一手になるのでは?と邪で打算的なことが頭をよぎった。これまで恵まれない片想いをしてきたのだから明るい未来があったっていいじゃないか。少しウトウトと眠そうな顔になってきたなまえにチャンスとばかりに答えを迫る。
「うん、研磨とクロの子になる」
「そっちかよ、」
結婚ではなく、研磨と一緒に養子に入る気満々のなまえに勘違いも甚だしくてガクリと項垂れる。そうだよなーなまえだもんなー。頭のどこかで分かっていてもつい自分の都合良く解釈してしまうのは男の性なのか。
「? クロも一緒に寝る?」
「寝ない。そんでお前はもう寝ろ。寝てください」
「おやすみ」
「ん、おやすみ」
穴があったら入りたい黒尾に眠たいと勘違いしたのか平気でベッドの中に誘ってくるなまえに微塵も男として意識されてないことが嫌でも分かってしまう。溢れそうなため息を押し殺しておやすみと伝えるとそっと瞼が落ちた。
黒尾はベッドに頬杖つきながら、白く透き通る肌や艶のある黒髪を眺める。本当に黙っていたら眠り姫のようだと思う。スヤスヤ聞こえだした寝息に一緒に寝ると誘われて未だにドギマギしてる心臓が馬鹿らしい。キスの一つ落とす勇気はないが鼻でも摘んでやろうかと顔を近づけるとガチャリと背後で扉が開いた音がした。
「なまえちょっと……え、クロ何してんの」
「してない!まだ、してない!」
「未遂も犯罪だけどね」
ひょこっと現れた研磨が寝ている姉と幼馴染の距離の近さに、クロがとうとう我慢ならずに手を出したかとドン引きした顔をするので黒尾は慌ててことの経緯を説明せざるを得なかった。
「そんなに新刊が読みたかったら、昨日図書室に残らず帰っときゃよかったのにな」
「なまえが図書室にいる理由知らないの?」
「は?本読みたいからだろ…?」
「高校入ってクロが部活ばっかで寂しいのかもよ」
「いやいや、まさか。ないない。ありえねーって。……え、まじ?」
「さぁ?起きたら本人に聞いてみなよ」
ついさっき盛大な勘違いをしたばかり。下手したら研磨の冗談かもしれない。今だって俺に襲う度胸すらないことを分かってて一から説明させた奴だぞ?いやでもそんなまさか。確かに高校に入ってより一層バレー漬けの日々で昔よりも一緒にいる時間は減ったとはいえなまえがそんな回りくどいことするか?でもそれが本当だったら…。いつもの勘違いでもなんでも良い。この眠り姫が起きたなら、2回目のにおはようを伝えてみよう。ああ早く起きてくれないだろうか。