あ、と彼女は声を上げた。彼女はいつもすぐにそうやって何でもないことにも声を上げる。 「今度は何だ」 やれやれと言いつつ、彼は毎度律儀に彼女にそう聞いてやる。猫がいる、と嬉しそうに呟いた彼女の横顔を上から見下ろしてから、彼は帽子のつばを引き下げた。やれやれだ。 店の軒先の日陰で丸まって眠っている、毛足の短い猫に彼女はすたすたと寄っていく。あんな颯爽とした女が猫一匹にはしゃいでいる。彼にしては柄にもなく、かわいいものだ、などとも思ってしまう。 「ねえ、すごく人懐こいよ」 目を覚まして自分の手に頭をすり寄せる猫に、彼女が相変わらずはしゃいだ声を上げる。 「承太郎」 ふたりきりのときだけ、彼女はそうやって彼の名前を呼んだ。今も満面に笑みを湛えて彼を呼んでいる。彼女は彼に慣れるとそれ以前が嘘のようにじゃれつくようになった。ポルナレフやアヴドゥルにするのと同じように気安くなった。日差しがきついと言って長身の彼の影に入ったり、眉をしかめる承太郎にカメラを向けたりするようになった。承太郎と同室になるのも嫌がらなくなった。 先にシャワーを浴びて早々に寝る姿勢を見せていたはずの彼女が、バスルームのドアを無遠慮に開けた。既にシャワーを浴び終えて制服のスラックスだけ身に着けた彼の裸の肩に彼女は腕を伸ばした。するりと蛇のようになめらかな動きで、細い腕は彼の首に回る。細い指の先が、彼の星型の痣を官能的になぞっていく。そうして彼女は何も言わずにじっと彼の顔を見上げている。彼女は彼の目が好きだった。寝る前にもう一度じっくり見ようくらいの気持ちでいるのかもしれない。うるんだ目にはっきりとはしない熱を浮き沈みさせた彼女が、彼の名前をささやく。湯を浴びたばかりの彼の身体はかあっと熱くなった。彼女はうっとりと彼の目を見つめたままだ。 「……そんな顔すんな。いつも言ってるじゃあねえか」 「どんな顔かいつも教えてくれないでしょう」 彼女を抱え上げて浴室の壁に押し付ける。甘える猫のような声で彼女は何度も彼の名前を呼んだ。 今では嘘のようなあの何十日間かを、彼はそれでも克明に覚えていた。その思い出の忘れかけていたような細部を、時々は別々の時期のものを切れ切れにつなぎ合わせたようなものを、夢にさえ見た。その夢で彼女が笑う度、自分の名前を呼ぶ度に思い出した。彼女は死んだ。最期の言葉に自分の名前をささやいて死んでいった。もう満足だとでも言いたげにいつものように笑って、彼女は彼の名前を呼んだ。 彼女が白いテーブルのそばの白い椅子に脚を組んで座って、不遜に鼻を鳴らして笑う。 「あなた少しも分かってないのね」 ジョジョ、と彼女はからかうように言う。でもこれだけは知っていて、と続けて彼女は椅子から立ち上がる。棒立ちの彼の方へ詰め寄って、怯む彼の胸板に人差し指を当てて、彼女はにやりと笑った。 「私はあなたを愛してるのよ、分かる?ばかな恋をしていたわけ、あなたに死んでほしくないってそればっかりで」 だからお願い、知らなかったなんて言わないで。一度も泣くところなど見たことのない彼女の涙も。 ×
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