きっと彼女があの人とうまくいったところで、一時、自分の無精や無能に頭を抱える程度で私はすぐに忘れてしまうだろう。ときどき思い出して自己嫌悪をしたとして、そこには自分しかいない。 ……嫉妬している。何の努力もなしに羨んでいる。 その自分の見苦しさに辟易している。 「煙草かよ」 「いる?」 「いらねえ」 箱を取り出した手を彼は嫌そうにすがめた目で睨んだ。 吐き出した煙の向こうに彼の表情がかすむ。じりじりと赤く後退するたばこの先を、フィルターをくわえたまま見つめていると、細くて骨っぽい指が、何の予告もなくさっとそれを取り上げた。 戸惑って泳いだ唇を見て彼がうすら笑う。 「なに」 「何が」 「なんか言いたいことでもあんの?」 「ねえよ」 彼は片目で笑う。会話がとぎれた。薄い唇の端に私のたばこを挟んで、彼はしばらく煙を愉しんでいた。 手持ち無沙汰にもう一本取り出そうとした私の手を、彼は黙って押さえ込んで、やんわりとした仕草で今度は箱ごと盗っていった。 私はその場に立ちつくしたまま彼の整った横顔を見るともなく見つめていた。 宅飲みに誘われたのは素直にうれしかった。女友達のかわいらしい笑い声や、果物に伸びる白い手。酒の入ったプラスチックの使い捨てのコップ。会場になったアパートの家主である先輩が作ってくれる肴。男連中のばか笑い、酒が入って柔らかくなめらかになる口調。スキンシップが増えていくのを眺めながら、楽しいのに、私は置いていかれるような気持ちになってしまう。気の利く女の子は忙しく立ち働いてくれて、私も何かしなければと思うのに、彼女と先輩が楽しそうにじゃれついているとなんだか気力が萎えて、自分が物の数にも入らない取るに足りない存在に落ち込んでいく気がした。実際、私は何もしていなかったし、女子力だとか気遣いだとかとは無縁に座り込んで酒を飲んでいるだけだった。彼女に何か、嫉妬をするなんていうのはいっそおこがましいほどだった。 不意に、煙と一緒に彼が笑い声を漏らした。 「見てんじゃねえよ」 「じゃあ盗らないでよ」 「むしゃくしゃするからって慣れないことすんな」 たばこは、そう、むしゃくしゃしたときだけ喫うことにしていた。誰かに言うまでもないような私ひとりの決めごとで、めったに人前では火を点けなかった。 言い返せないまま、私が逃げるように中へ戻ろうとするのを、彼は視線だけで思い留まらせた。私は彼の、描いているわけでもないのに秀逸な眉や、すっと通った鼻筋以上に、彼の片目から目を放すことができない。 私はその目に逆らえずにびくびくしている。みにくい心根がおびえたり羨んだり嫉んだりわがままをつぶやいているのをまるきり見られているようで怖いのに、逸らしてしまうと冷笑される気がしてなお怖いのだ。 何もかも勝手な被害妄想だと、そうやって割り切ることがうまくできない。 ここへ来る前、気にしすぎだよ、と笑った彼女の、自分の顔に化粧を施す手元をふと思い出して、私はさらに口を固くつぐんだ。 彼は短くなったたばこを、先輩がベランダに置きっぱなしにしている灰皿に押しつけて消し、くしゃくしゃにした。 部屋の中からはまだ元気にはしゃぐみんなの声が聞こえている。誰かが、買い出しに行ってくるけど、と全体に声をかけている。続いて応答や同意や謝辞が聞こえる。誰かがウイスキーを連呼し、誰かが米を食いたいなどと言って、先輩が笑っている。そこまで世話は焼かねーぞ。その人の声だけがやたらにはっきりと聞こえた。大した内容の発言ではないはずなのに耳に刺さるように。 「分かりやすいんだよ、お前は」 「初めて言われた」 彼は私のたばこの箱を手の中でもてあそびながら、もう笑っていなかった。 彼はまるで、私が自分で自分のことをあきらめ始めていることを見すかしているようで、そしてあたかもそれをくだらないと断じているようだった。そういう語気の静かな強さにすら私は気圧されて負けている。 「伊達くんって怖い」 私の口から拗ねたような声が出たのを彼は聞いていた。 中で、誰かが買い出しのために部屋を出て行く音がして、しばらくするとアパートの下に二人組が現れて曲がり角に消えていった。 伊達くんは黙ったまま、セブンスターの箱をジーンズのポケットに押し込んだ。そしてベランダのドアのそばから、私の方に少しだけその長い脚を向けて伸ばした。間近に顔を覗き込まれてぎょっとしている内に、私は同じ煙の味に毒されたくちびるを迎えていた。 「なに、今の」 「用件」 「……意味わかんない」 「だろうな」 肩を軽く掴まれて、押される。ほとんど戸惑いのせいでよろけて、中からは見えないベランダの隅の角に、逃げ場もなく私は立っていた。 伊達くんは何も言わなかった。もう一度、こちらの返答を少しも必要としていないようなキスをされて、私は目を閉じることもできないでいた。長いまつげの影と、薄いまぶた。白くさらりと乾いた肌に高い鼻梁の影が落ちていて、形のいいくちびるは熱を持っていた。 彼は本当にうつくしい男で、私はなんだか泣きたくなる。嫉妬している。私がもしも、もっと顔かたちや心根や何かがうつくしい人間だったらこんな気持ちにならずに済んだだろうか。物の数にも入らない幽霊のような存在でなく、もっと別の何かだったなら。 「そこまで悲観するほどひどいもんかよ、なあ、名前」 見抜いたように彼は言う。私が考えのすべてを口に出してしまっていてそれで彼はこんなに何もかもタイムリーに言葉を選んでくれるのだろうかと思ってしまうほどだった。至近距離で目が合う。彼は、伊達くんは、敏いより賢いよりずっと別の何かのせいで私を見ているのだと今さらのように気付いて身体がふるえた。 「悪趣味なんだね」 「そうでもねえだろ」 伊達くんは笑った。 いつの間にか遠くに行っていた部屋の中のざわめきが急に近付いてきて、私はそれと一緒に自分を取り戻したように慌ててしまって、目の前の彼を押しのけた。 「俺にしとけ」 私が彼の前をすり抜けて、建て付けの悪いベランダのドアと悪戦苦闘している横から、彼は悠然と言った。 私から取り上げたセブンスターを改めて取り出して一本くわえ、趣味のいいZippoで火を点けて、それからこちらを見もせずにその白い箱を投げて寄越す。彼は顔以上にそういった仕草がやたらにかっこいい男だった。 片手で受け取った箱を、動揺と、おかしな緊張で握りつぶしそうになりながら、ようやくの思いで私は口を開く。 「しらふになったらね」 ようやくドアがガタガタと怪しい音を立てて開いた。私と入れ替わりに、重度の喫煙者がふたり、ベランダに一服しに出て行った。 買い出しが帰ってきていないので、テーブルに酒もつまみもほとんどなかったが、部屋の中は酒臭かった。先輩はウイスキーグラスに真っ白な濁り酒を入れて少しずつ飲んでいた。隅で寝転がって、もうつぶれているのもいる。ゆっくり部屋を横切っていって、私は今のやりとりを深く考えることができないまま、彼女の姿を探して首を回した。 「あいつなら眠いって言うから俺のベッドで寝かしてる」 先輩が何か察したように言った。私は浮かれた心が沈んでいこうとするのを感じながら、ほの暗い気持ちでうなずいて、自分のバッグから水のペットボトルを出して飲んだ。 ベランダのドアがまた開いて、伊達くんが部屋に入ってくる。彼は私の後ろから手を伸ばしてきて、さっきのたばこの箱のようにペットボトルを盗っていった。私は何も言わなかった。不意に予感と、決意が湧いてきたのを感じただけだった。キャップが外れたままのそれに口をつけて残りを飲んでしまってから、彼は言う。 「まだ酔ってるか?」 アルコールの気配は、煙の味に負けて消えていた。 「たぶん、全然」 「じゃあどうする?」 「伊達くんがいい」 「決まりだな」 先輩がきょとんとしている前で、彼は私の頭に手を置いて髪をくしゃりと撫でると、やさしげに笑った。笑い返してみてから、私はなんだかとても久しぶりにそうしたような気がした。 ×
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