ブローノ・ブチャラティという男に、木材のドアについている、まるでかんぬきみたいに間抜けな鍵なんてものは存在しないも同然だ。それはもちろん同じチームの男たち全員に言えることだが、ブチャラティはそのスタンド能力のためにまったく見事に鍵という概念そのものを無視することができる。彼が普段そんなことをせず他人のプライバシーを尊重してくれるのはひとえに彼の人徳の成せる技だった。 ナランチャは言うまでもなくフーゴやアバッキオは私が生意気にもドアに鍵をかけて閉じこもるとまず間違いなくドアを殴りつけて開けろと騒いだあとにドアを破壊するだろう。ミスタは鍵だけを壊して何食わぬ顔をするだろう。ジョルノは、きっとノックに応答がなければほうっておいてくれる。…この場合もどの場合も、たぶん彼が一番大人だ。 そしてかくいうブチャラティ。 彼はよほどのことがなければスタンド能力を使うなんていう手段をとったりしないだろう。まして仲間内で、しかも隠れ家の中で。 ではよほどのこととは? 例えば私がこの部屋で鍵をかけてひとりで泣いていて、誰が行っても癇癪を起こしているようなとき、ブチャラティは門前払いと同時にジッパーを開く。悠々と室内に現れて、気付いた私が大泣きしながらぶん投げる枕も華麗にかわし、暴れる私の肩を抱いて泣きやむまでそばにいてくれる。 そういう、ブチャラティにしか私をなだめることのできない場面。それがよほどのこと。 だからこうしてここに逃げ込んで閉じこもってしまった以上、ブチャラティが私と話し合いの場を持つために部屋を訪れるのは当然予測できたことだったので、部屋の鍵は閉めなかった。入ろうと思えば入れるという気軽さにおいては、彼にとって、部屋の鍵はまったく関わりがない。ドアをノックして入っていくか、ジッパーを開いて出てくるか。それだけだ。 ブチャラティは、丁寧なノックのあと、そこが開いているのを承知だったのか無言でドアを開き、姿を見せた。いつもの彼ならきっと、「名前、入るぞ」とやさしく声をかけてくれた。いつもならそうだ。 ただ、今は上述の通り「よほどのこと」なのだ。 私は彼にスタンドと一緒に現れてほしくなくてドアを開けておいた。彼の厳しい、それでいて最近の激務に疲労した表情を視線で一撫でしてから、私はようやくベッドの上で身を起こす。 「あまり困らせるな」 第一声も彼は疲れていた。若さに似つかわしくない厳格な響きの声は、どちらか一方でも愛を確信している男女の間にあってはひどく薄情だ。 「そう、困りものはあなたよ」 私はブチャラティの恋人ではない。だから偉そうなことを言えた立場ではないけれどまずは仲間として、ここのところずっと休息を勧めてきた。つい何時間か前にも同じことをしたけれど彼はあまりいい顔をせず、それどころかほぼ2日間徹夜の身分で私にコーヒーのおかわりを要求した。心配しているのに、と。押しつけがましくも私は苛立ちを感じ、トゲのある言葉で心身を消耗している上司に食ってかかった。彼も苛立っていて、珍しく口論になった。さんざんな舌戦の末、私は捨て台詞にわけも分からず彼に愛の告白をして逃げ去った。 そこから数時間後の今になって彼がやってきたということは、さっきまで睨みつけていた案件をやっつけたのだろう。あくまでも仕事を優先するくせに、疲れていて今すぐ眠りたいだろうに私のことを構いに来てしまう辺り、彼は本当に律儀な男だった。 「名前」 「仕事が片付いたなら早く寝れば、ブチャラティ。身体に障るわよ」 私とブチャラティは恋人ではないけれど、私が彼を愛していることを彼は知っているはずで、彼が私をただの部下と思っているわけではないようなのを私も感じている。 「そうしたいのは山々だが、さっきの話は今日の内にしかできない。だろう?」 彼が外に女でも作れば諦めがつくだろうと思っていた私のあては外れ続けている。 彼は実に誠実な男で、ギャングらしく放蕩な女遊びに耽ったりはしていなかったしアジトで私と顔を合わす度、何かを確認しているようだった。一方の私もいよいよ彼しか愛せないような気持ちで彼を見てしまう。 「話すことないけど」 「名前」 諭すように名前を呼んだ彼は、打って変わって熱っぽい目をしている。 「まさかさっきのことを忘れたわけじゃあないだろう」 「忘れていなくても、水に流してほしいとは思ってる」 「聞かなかったことにしろと?」 数時間前。口論のどさくさに口にした一言は尾を引いて、じわじわと回る毒のように私の首を絞めている。 あのとき、どうしてそこまで気にかけるんだと聞かれて、急に足元が頼りなくなったような気がして目の前の彼にすがりたいような気持ちで、あなたを愛してるからでしょう、と。言ってしまった。 本当はただの一部下のままでいたくなくて、あなたを心配する権利がほしくて。 でも言うべきじゃなかった。 「この何時間かで頭が冷えたの。さっきはどうかしてた。ごめんなさい、振り回して」 狼狽して部屋に逃げる最中、今追いかけて来られたらきっともう欠片も理性的でいられなくなると分かっていた。もちろんブチャラティは追って来なかったし、私は部屋に駆け込んで頭の中を整理した。彼はおそらく私の気持ちを知ってなどいない。さらに言うなら私は、彼にとって仕事の都合や何かをかなぐり捨ててまで追いかけたいような女ではない。彼のイタリアーノらしからぬ生真面目なところを責めるわけではないけれど、ただ私は思い上がっていたのだ。…言うべきじゃなかった。どんなに彼を愛していても結局は独りよがりだった。 「俺を愛してると言ったろう」 ブチャラティの声はつぶやくように低かったけれど、しっかりと聞こえた。部屋の中はひどく静かで、私は音を立てずに息を呑んだ。 近寄ってきた彼はベッドの端に腰を下ろした。父親がだだをこねる子供を寝かしつけるように頬にふれる指先を鼻持ちならなく思うのに払いのけることもできない。彼の手にこうやってさわられることでどれだけ私がうろたえたりときめいたりしているかなんて彼は少しも分かっていない。 「俺だってお前を愛してる、名前」 「じゃあ唇にキスをくれるの、パードレ?」 「ちゃかすな」 ブチャラティは、ふ、と寛容に笑ったあと、身を屈めてキスをした。 彼はつい数時間前まで私から寄せられる愛に気付いてすらいなかった。けれどそれは私も同じだ。 彼の胸元に広がる緻密な刺青の線に指を走らせて、それから私は考えるのをやめる。 彼が私を愛していると言ってこの身体に触れている。もうそれだけで充分だ。ひとりで浮き沈みして暴れるのはもうよそう。 ×
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