テノスの夜は寒い。うっかり凍死するのではと思わせるくらい、寒い。
そんな極寒の土地で野宿だなんて愚の骨頂だと全員満場一致で、多少高くついても、今日はちゃんとした宿に泊まるということに決まった。今までのどの町より宿代が高いね、とアンジュと言い合ってはいたが背に腹は替えられない。下手な安宿をとってすきま風で凍死しては元も子もないのだ。
戦乱がやや終局を見せつつある現状ではあるが、当然激戦区を抜けた先のテノスに観光客がおいそれと足を伸ばすはずはなく、部屋には空きがあった。が、ちょっとした間取りの問題で私が一人部屋にあぶれた。団体行動ばかりだと気が抜けなくて困っていたところだったので、私は当然快く承諾したのだが。
防寒対策の為された分厚い壁は暖かみのあるクリーム色で、オレンジ色の灯りが浮かぶといっそう居心地が良かった。寒さから守られていると切に感じる。
夕方まで降っていた牡丹雪はすっかり止んで、窓の外は一面、まっさらな銀色をしていた。
今日は不寝番の必要もなければ夜襲の心配も無い。ああ久しぶりに穏やかに眠れそうだ。ソルダートと違って私は常に張り詰めた空間に居る生活には耐えられないのである。
柔らかいベッドに転がってしばらくうとうとしていたのだが、ふと奇妙な音に気付いた。分厚いはずの窓ガラスの向こうから、何か、聞こえる。
そうなると途端に意識が覚醒してしまうのだから、私もソルダートのことばかりは言えない立派な職業病だ。傭兵という職にある人間は全く以て本当に救えない。
そろりと床に足を下ろし、窓際へ進む。壁に肩を寄せて外を見ると、月明かりの中神々しくさえ映る白銀の世界に、きっと間違えて入ってきてしまったんだなと思わざるを得ないようなピンク色のフリルの男がふらふら歩いている。しかもなにやら大声で歌いながら。窓ガラス越しに奇妙な単語が途切れがちにだが聞こえてくる。ため息しか出なかった。はた目に見て明らかに不審な人間と自分に面識があることが情けない。
奴はいつまでも高らかに歌っているので、段々と部屋の窓辺にいつまでも突っ立っているわけにもいかなくなってきた。何にせようるさい。夜着の軽装の上に、部屋に置いてあった厚手のガウンを羽織ると、私は意を決して窓を開けた。気付いてか、それとも私の行動が奴の狙い通りなのか、ピンクでフリルが可愛い変態が、歌うのをやめてこちらを見上げた。片や、宿の三階である。男が今どんな顔をしているかなど詳細には分からない。とにかく、この凪いだ潮風が冷たい。
「やあやあ名前、いい夜だね」
「あんたがいなければきっとね」
「つれない言葉だ。泣けてくる。………涙ってものはどうやって流すんだっけか。まあいい。オレたちの再会に乾杯」
「どうでもいいけど、あんた公害だよ。歌って歩くのはよしな」
乾杯、とハスタが差し出したのはグラスなんかでなく愛用の槍だ。まあこの距離だし届くはずもない。私は窓枠に肘を置いて頬杖を突く。せっかく暖かかった室内が急速に冷えていく。どうして私はいちいちこいつに構ってしまうのか、未だに定かでない。奴の懐かしさすら感じさせる異様な佇まいに、かつてはゲイボルグの使い手だった私の記憶が引き寄せられてでもいるのだろうか。迷惑な話だ。
「ていうか不思議だったんだけど、あんたの言ってる窓辺のマーガレットって何」
さっきの奴の歌にも登場していた様子だったが、そういえば以前、その窓辺のマーガレットで自分を形容してなかったか、こいつ。
「さあて、お前のことかも分からないな。なあマーガッ…マーガレット?」
「なんで噛んだ。いや百歩譲って窓辺まではいいにしてもマーガレットはないな」
するとハスタは気が触れたように、いや元々触れてるけど、とにかく可笑しそうに、カッカッカッとか全然聞き慣れない笑い方で爆笑した。何なの、マイブームなの?
寒さと、たぶんおそらく絶対ハスタの所為で、背筋がぞっとした。こんな夜中にピンクのフリル男と歓談なんて本当にありえない。
「ところで物は相談なんだがね、窓辺の名前」
「語呂わりいな」
「そろそろオレサマ寒くなってきたワケでして」
「私も寒い。誰かさんと喋るために窓を開けたから」
ほうほう、と頷いたかと思うと、美しい新雪を踏み荒らしていた無遠慮な男の、遠目に見る背格好が視界から消えた。人間が瞬間移動する時代か、とハスタのことなので大して驚きもせずに居たら、白い手がぬうっと伸びてきて窓枠を掴んだ。
「まあつまりは部屋に入れておくんなさいよというワケなのだ」
そして次いで、ハスタがぬるりと顔を出す。えええ、と近くに迫ったハスタの顔面に向かって声を上げると、奴はまたカッカッカッ笑いだ。なんで自分のこと殺しかねない野郎を部屋に上げなきゃならないんだ。
「やだよ落ちろ」
「つれない言葉だ、元相棒。オレは引き続きこんなにもお前を求めているというのに」
「血祭りに上げたいだけだろう」
「……お前の血はきっと赤い」
「人間の血は赤いものだ」
ついには窓枠に乗り上げたハスタが、一歩下がった私を見てにやにや笑う。壁を登って来るなんて、お前ほんとに非常識だな。
「他に類を見ないほど赤い。オレはそれを確かめたいばかりに転生したに違いゴザラヌ」
長い腕がぬるりと伸びてきた。飛び退いて逃げることも、悲鳴を上げてソルダートたちを呼ぶことも、完全に窓枠に座り込んで足なんかぶらつかせてるハスタを突き落とすことだって、私にはできたはずなのだ。
前世、私に角があった場所を、骨張った指がなぞる。動けなかったが、このまま髪むしられたらどうしようなどとアホなことは考えていた。痛そうだ。私を見ているハスタの奇妙なくらいの無表情を見返していると、本当に、奇妙としか言い様のない気分になる。
「……ねえ、マジ寒い。閉めるから出てって」
「オレを中に入れてから鍵閉めると吉。心をあっためて進ぜるヨ」
「あんたにそんなんされたら破裂しそうだ」
す、と指先が降りて、私の目の横に触る。目、と言葉を知らない子供みたいにハスタが呟いた。
ついに窓枠から腰を浮かせると、ハスタは部屋の床に降り立つ。後ろ手に窓を閉めるのを忘れないところを見ると、いかにこいつでも寒いもんは寒いらしい。
「見慣れない?」
びくりとハスタの指がふるえた。ハスタが私以上に何かを知っているのと同じように、私にも分かっていることがある。この男は私が誰だか、まだちゃんと認識できていないのだ。かつての使い手だった女への望郷が強すぎて、私が見えない。心から求めているのは私なんかじゃない。この目に、あの女と同じ眼光が無いから訝ってる。
「あんた本当は、私のこと、殺す価値もないって思ってる。私が弱すぎて、いっそ哀れんでる」
だから、こんな風に触ってるのに殺気のかけらも無いんだ。ハスタの赤い目が暗い部屋の中でぎらついた。分かるよ、私はあんたのことが分かるよ、分かりたくもないけど分かる。あんたなんか大嫌いだし前世のことだってあれが自分だったなんて信じたくないくらいには嫌いだけど。
ノックの音がした。まさにそのとき、ハスタが私のサイドの髪を引っ掴んだ。いたっ、と緊張感ゼロの私の声が届いたのか、ドアの外からエルマーナの声がどないしたん?と声をかけてきて、すぐにドアを開けた。
エルマーナが絶句してハスタと私を指差して、叫びを上げる二秒前みたいな顔をしてる。逃げようとしてもがいて、奴の胸を押し返した私の舌を、事もあろうにハスタは噛んだ。がり、とか砂を噛むような音がした。痛すぎて目がチカチカして、一瞬マジで死ぬかと思った。血の味と一緒に、舌が肉の塊なんだって今さら実感する。ああくそ、超生きてる私。舌噛み切られるところだったのにばっちり生きてる。
「授血完了。さすが名前の血は美味だ。そんな気がする」
血だらけの私の舌をさらにざらりと舐めたかと思うと、ハスタはからから笑ってひらりと身を翻した。それから豪快に窓を開け放し、静謐な夜に飛び出していく。
逃げていく背中を睨みながら、窓の木枠に食い込むくらい強く爪を立てた。痛いしムカつく。結局あいつ何しに来たんだ。次会ったら、マジで、次こそ殺す。
ぼくは飢えています
他ならないきみに