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女が密偵だと知ったのは、ほんの先ごろのことにも思える。手元に置いてその主への連絡を絶たせるのは簡単なことだった。女は訳知り顔に笑い、元就様に捨てられてしまうわ、と。


それがつい半月前のこと。彼女を陣営に迎えてからは一年と一月。……この女に毛利方の情報を吐かせることが、彼には今もってできなかった。


「元就様に認められたい、これが欲。けれどあなたに愛されたい、それも欲。あなたの言う徳川の所業も武人としての欲でしょうに」

「もう黙れ。お前の言うことなぞ、聞いちゃおれねえ」

「欲のために嘘をつき策を練り約を破る。ありふれたことに憤慨なさって、おかわいらしいのね」


情の深い方、傷つきやすくて心の線が細いのね。女の声は軽やかに鳴らした鈴のようだった。性根の悪い女。
甲が高く、健の浮いた足が浜を歩いていく。死人のように白い肌が西日に線をやわくなぞられて、ようやく人らしい。


「お前はまるで幽霊だな」


女はつと足を止め、振り返った。白皙の、冷たい顔立ちの女は、その主に表情がよく似ているようだった。


「ご冗談を。足があります」

「知ってらァ。……そういや俺は一度もお前にさわったことがねえよ。透けてやしねえだろうな」

「さわって、確かめますか?」


うっすらと冷たい潮風が女の黒髪をなぶって過ぎていく。女は言って、まつげを伏せ、ゆっくりと踵を返した。浜に打ち寄せる波の音に海鳥の声が混じる。


「俺がさわって、お前、毛利のところへ帰れねえと文句を垂れるなよ」

「操が羽衣でもあるまいに、そのようなうつけは申しませぬ」


日は海へと没し、夕暮れは夜になった。女はますます死人のように白く、暗がりに浮いて見えた。濡れたような黒髪はまた潮風にあおられてなびく。


「愛されたいと、そうやって言うのは保身のための嘘か」

「女々しいことをおっしゃる。愛されたいと言えば愛してくださるのか」

「……やぶさかではねえな」

「さて、それも欲ではありませんか」


その声色で、女が意地悪く笑ったことに気付いて、彼は居心地悪く群青にてらう波打ち際に目をやる。半月前のあれ以来、憔悴して顔色はすっかり青白い。底意地の悪い口説ばかり練る女。


「嫌な女だ、てめえは」


今夜のねぐらに決めた気に入りの機巧砦の入口までやって来た彼は足を止めた。女の横顔はうっすらと微笑んでいた。彼とは目を合わせもせずに女は口を開く。ころりと鈴を落としたような立ち消えの声音で言う。


「あなたはまるで浅ましい子供のまま。いとおしいことです。かわいらしいひと」

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