「…本当にするよ?」 いいですよ、と答える代わりに私が笑って見せると、先輩はそのまま何も言わずにした。煙草の味がした。この人がちゃんと誰かを好きになるところってちょっと想像つかないなあ。きっと本当に好かれる人は大変だろうなあ。…たった一回キスをするだけの相手にまでこんなこと思われて、かわいそうな先輩。 煙草嫌いなのにうちのサークル屈指のヘビースモーカーとキスなんかしてしまったもんだから、口直しにカシスオレンジを流し入れる。懲りずに王様ゲームを続けている人たちの方から怒号と悲鳴が上がったのでそっちを見ると、学校でも有名な美男美女ふたりが輪の中心でもじもじしている。げんなり。彼と彼女が両思いってことは、みんなが知らなくても私は知っていることだった。 「名前ちゃん」 声をかけてきたのは猿飛先輩で、ついさっきチューした相手に気なんか遣って、隣いい?なんて。座ればいいじゃないですか。 「盛り上がってるね」 「そうですね」 ついさっきその盛り上がりの餌にされたことにはあえて触れず、私も先輩も呆れてそれぞれの酒を口にする。周りに煽られてついに美男と美女がさっきの私たちよろしくチューなんかしちゃったのを見てしまってから、先輩はグラスの残りを空けてしまうと、改めて私の方に首を動かした。 「名前ちゃん」 「はい」 「コンビニ行かない?」 いいですよ、と私が答えると、先輩は財布だけジーンズの後ろのポケットに突っ込んで私のコートを探してくれた。私たちがこそこそと脱け出すのには誰も気付かない様子だった。居酒屋に来るまではしていたマフラーを忘れてきた猿飛先輩は、店を一歩出た瞬間にくしゃみをした。 駅前の居酒屋ばかりの通りは明るくて、風が冷たい。肩を縮めて歩いている内に、すぐにファミマの看板が見えた。酔いが冷めそうな寒さですね、と私が言うと、先輩はうん、とだけ答えて寒そうに首をすくめた。 先輩がレジで煙草を買う横で私がじっとしていると、先輩が何か買ってあげるよと言うので、酔った頭でチョコレートを持ってレジに戻る。俺にもちょうだい、と先輩が言う。もちろんどうぞ、と私が返すと、無愛想な店員が煙草とチョコレートの箱が入ったビニール袋を先輩に突き出した。 外に出るとやっぱり寒くて、お礼を言ってから買ってもらったチョコレートの箱を開けようとした私の手はもうかじかんでいた。一粒、口に入れてから箱を差し出す。ありがとうと言って一粒手に取る彼の手も冷たそうだ。 「酔い覚ましに、ちょっと遠回りして戻ろうか」 「そうですね」 口の中で溶かしたチョコの味が消えない内にもう一粒舌に乗せる。先輩が俺にも、と言うので差し出す。人通りの少ない方の道を選んでみると、途端に照明が減って、道は一気に暗くなった。 「先輩っていい人ですよね」 「……まあね」 テンションの低い声で応答すると、先輩は不意に思い出したように煙草を出して、火を点けようとした。 「私、煙草嫌いなんですよ」 「…そっか」 先輩は火の点いていない煙草を持て余して箱に戻してしまうと、チョコもう一個、とちょっとかわいこぶって言った。やっぱりそういうところ、いい人。 「煙草吸わないと口さみしいって本当なんですか?」 「うん、結構本当」 「じゃあもう一個どうぞ、お口の恋人」 「…うん、いただきます」 箱からチョコレートを取った先輩の顔を凝視して、酔った頭で考える。彼が本当に好きになって、彼を本当に好きな、誰か。そんなのが今までにもこの先にもいる。本当に?私の想像が追いつかないだけできっといるんだろうけど。それってなんか。 「先輩ってクリスマスどうするんですか?」 「バイト。そのあと、彼女いないヤロー共だけで悲しいカラオケオール」 「マジすか。いいですね」 「どこがよ」 「楽しそう」 「楽しいけどね…」 「…あ、好きな子いるんだ、先輩」 え、と口元を引きつらせた先輩が私の顔を見返した。 「それか、彼女ほしいんでしょう」 私が笑っていると、先輩が足を止めた。気付いて私も立ち止まる。こっちを見る、やや酒気の抜けた目。私はお口の恋人を飲み込んだ。先輩はバンダナをしている額に手をあててうつむいてしまう。 「…気付いてて試してんのか本当に気付いてないのか、どっちなのさきみは。俺様的にはどっちかというと前者の方が気は楽なんだけど」 「何がです?」 ちょっと怖い声でマジかよ、と呟いた先輩は、三歩くらい前にいた私と距離を詰めて目の前に立った。酔ってるんだか、冷めちゃったんだか、よく分からないやけに真剣な先輩の顔。 「好きだよ、名前ちゃん。酔っ払いに言われても嬉しくないだろうけど」 ………たぶん、私は酔っている。なんたってさっき王様ゲームなんかでこの先輩と平気でキスなんかしちゃったし。なんだか現実じゃありえないような幻聴が聞こえるし。 「先輩、私…」 「ごめん、今のなし。お互いしらふのときにもっかい言うからさ、今返事するの、勘弁し」 「…私、たぶん家帰って寝て起きたら、今の絶対忘れてます。夢だと思っちゃいます。むしろ今の、幻聴じゃないかって思って」 私が相手の言葉を遮ったのと同じように私の言葉も遮られてしまって、気がついたら先輩は思いきり私を抱きしめていて、私は危うくチョコの箱を握り潰すところだった。息が止まった。先輩の好きな人なんていうのは、きっと私の想像もつかないようなもっと縁の遠い誰かのことだと思っていた。ていうかいるのとか思っていた。いたとしたってそれって私じゃないし。…それってなんかさみしい、なんつって恋かよみたいな。酔った頭の方がずいぶん素直にそんなことを。 「名前ちゃん、俺さ、今酔ってるから。ごめん本当に許して」 どうしよう好きかもしれない。好きなんだ、と、耳元に切羽詰って掠れた先輩のいい声を聞きながら私はアルコールのせいにしきれない熱を肺に感じていた。 |