ハスキーな女性の声が陽気な調子で歌っているのが休息室の中から聞こえてきて、ユリアン・ミンツははたと足を止めた。 肉体資本の男性士官ばかりが集うこの訓練場に出入りする女性といえば情報部の変わり種、苗字大尉くらいのものなので、多分これは彼女の声なのだろう。苗字大尉という人はヤン提督の士官学校時代の後輩だ。制服組のしかも女性士官だが、デスクワークのストレス発散のために"薔薇の騎士"連隊の訓練場で男所帯の訓練に混ざったりするような奇特な人物だ。 しかし確か彼女は、男所帯に女性がひとりだけという状況を憂慮されて、前連隊長であるシェーンコップ少将からトレーニングルームへの立ち入りを禁じられていたはずだ。 訝りながらも休息室に入ると、ユリアンはドアのすぐそばに立っていたリンツ中佐とぶつかりそうになった。いつも明敏な彼らしくもなくぼうっとしていた様子で、肩にドアの角をぶつけられる直前になってようやく気付いてとっさに二歩ほど引いたようだった。片手にコーヒーの入った紙コップを持って、彼は特に取り繕った風もなく、やあユリアン、と単調なほどの挨拶をする。 部屋の中心で"薔薇の騎士"連隊のお歴々と歌い交わしていた陽気な歌声の主がユリアンたちの方を向いた。つやのある黒髪をかきあげた彼女は、ユリアンに気付いてひらひらと白い手を振る。応えて振り返したあと、ユリアンは騒ぎには参加せず、リンツ中佐のとなりに立って彼らが笑い騒ぐ様子をじっと見やった。 はっきりとした滑舌で、苗字大尉は恋の歌を歌っていた。曲名は知らないが、ユリアンも聞いたことのある節回しだったので、おそらくは有名な曲なのだろう。彼女の声によく合っている。 ふと彼が横を見てみると、リンツ中佐が、屈強な男たちに囲まれた苗字大尉をじっと見ていた。食い入るように、というよりは、目が離せない、といった風で、口元に持っていきかけたコーヒーを飲む動作までたどり着かずに、湯気を顎に当てている。 ユリアンは最初、この沈着な連隊長が訓練のあとで疲れているのだと思って気にしなかった。しかし、肉体労働が主体の"薔薇の騎士"の連隊長ともあろう人が、訓練の一回や二回で動きに精彩を欠くほど疲れ果てるだろうか。ユリアンの頭の一遇で、否、と答えが跳ね返ってくる。
「苗字大尉って、シェーンコップ少将から立ち入りを禁止されていませんでした?」 「ん?……ああ、訓練に参加しなければ問題ないんじゃないかな」
中佐の答えはやはりどこかぼんやりしている。思い出したようにコーヒーを口に含んで、彼はまた沈黙した。 笑い声と共に苗字大尉の歌声が止まると、野太い合唱だけが取り残される。室内でたったひとりの女性は、まだ他の面々が騒いでいるのを横目に紙コップのコーヒーを片手にユリアンたちの方へやってきた。
「こんにちは、ユリアン」 「こんにちは、苗字大尉。シェーンコップ少将からの立ち入り禁止令はもう解けたんですか?」 「ううん、全然。今日はリンツ中佐に書類を持ってきただけ」
それなのにいつの間にか輪の中心に引っ張り込まれていたのだ、と彼女は悪びれた風もなく言って、なぜだろうね、と肩をすくめた。 リンツ中佐は止めなかったんだな。悠々とアイリッシュコーヒーをすすっている長身の佐官を横目に見てから、ユリアンは苗字に、シェーンコップ少将に叱られない内に出た方が、と進言した。一瞬差し出がましかっただろうか、とユリアンは思ったが、大尉の方も大いに頷いてテーブルの上に放置されていたベレー帽を無造作に頭に乗せた。ご老人は心配性だわね、などと軽口を叩くのを、彼女は忘れない。
それからひとつ敬礼を施して、それじゃあ、と、出て行きかけた苗字大尉が一瞬、リンツ中佐を見る。微笑が彼女の口元にのぼりかけて、形になりそこなった。まるで、笑いかけていいものか躊躇するような彼女に対して、中佐の方が、完璧とはいかないまでも余裕のある笑顔を向けると、彼女は曖昧に会釈をして足早に休息室を出て行った。 一部始終を横で見ていたユリアンには、この微妙なぎこちなさが何なのかはよく分からない。普段、闊達なふたりがどうしたことだろうか。 とりあえずシェーンコップ少将から課された訓練の行程は済ませていたユリアンも、苗字大尉に続く形でリンツ中佐に敬礼をして室内を辞した。
そのユリアンが通路を歩いているとちょうどポプラン少佐が通りかかって、やけに気落ちした風でユリアンに絡んできた。
「おい、不肖の弟子よ、聞いてくれるか。ついに苗字大尉が患ってしまわれたんだ」 「どこかお悪いようには見えませんでしたよ」 「ところがお悪いのさ、目だか心臓だかがな。……まあつまり恋だな、恋の病ってやつだ」
ユリアンが途中から訝った顔をしたので、ポプランは肩をすくめて苗字大尉の"診察結果"を口に出した。恋。ユリアンの脳裏に、大尉と中佐のぎこちないやりとりが浮かぶ。今さっき見たことだから安直に繋げてしまうのだが、ポプラン少佐が、まったく見る目の無い…などとぼやいているのを見ると、思い違いのような気がしてくる。ポプランに言わせてしまえば、自分以外の男を選ぶ女は大概趣味が悪いことになってしまうのだ。
「しかし相手の方もいつまでも手をこまねいていてよろしくない。それに、大尉の浮かれようがまた面白くない」 「ずいぶんお詳しいようなんですね、ポプラン少佐」
まあな、とこれもあまり愉快ではなさそうに応答したポプランの口から、続けざまに、リンツの岡惚れ大将め、などと悪態がついて出た。
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