面白い男が居るんだ、と煙管を喫かしながら前田様はこちらに笑いかけた。 周りに、この遊廓でも位の高い姐さん方を侍らしているこの大男が正味の話少し苦手な私は、はあ、という生返事だけを口の端からこぼした。姐さん方の咎めるような視線が痛い。今まで客と話すのは姐さん方に任せきりだったものだから、未だに客と一対一で話すのが苦手だった。今からそんなではお客は続かないよだのとお叱りを受けることも一度や二度ではない。私は元が無愛想なのだ。勘弁してほしいところだが、そうもいかないのが廓で売られる商売の世知辛いところであった。
しかし、前田様は気にした風でもなく呉羽姐さんの膝に頭を乗せて寝転び、正面に正座したきりでろくに口も開かない私に向かって滔々とその「面白い男」について話して聞かせた。 私は時折差し出される猪口に酒を注ぎ入れ、相槌を打った。
「今度連れて来るから、会ってやってくれるかい?」 「わっちでよろしいなら、喜んで」
当たり障りない返答に満足気な笑みを見せた前田様は、その日はそのまま呉羽姐さんと閨に入っていった。 うまくやったね、と姐さん方が口々に言うが、私はと言えば今から気が重い。廓育ちのくせに振る舞いもあしらいもなっちゃいないのは自分でよく分かっている。前田様がもうその気でいらっしゃるようだから、精々恥をかかない程度にはどうにか捌かなくてはならなくなってしまった。
後日、前田様は宣言の通りに若武者をひとり連れて妓楼にやって来た。同期の連中が素敵な若様じゃないかなどと囁き交わすのが耳に入る。良家の坊っちゃんかもよ、と、にやついた女たちの顔がちゃかすので、しょうがないからとっときの紅を引っ張り出してきた。客が買ってくれたものだったからあることも忘れていたのだが。 私が座敷に揚がると、ご挨拶しな、と呉羽姐さんの静かだけれど厳しい声に促される。丁重に頭を下げて顔を上げたら、目元を緊張で強張らせた若武者と目が合った。彼はよほど初心なのか顔を真っ赤にして武骨に頭を下げ、礼を返してきた。慣れない素振りの客が初めてというわけではないが、あまりの初々しさに拍子抜けしてしまう。思わず上目で前田様を窺った。彼は上機嫌で呉羽姐さんの腰を抱いている。 いったい何が面白いのか、この男の。
酌をする指先が触れるだけで、その若武者は手を震わせていた。顔を見れば、羞恥か何かなのかやっぱり顔が赤い。前田様と呉羽姐さん、それから他の座敷から回されて来た新造たちがいかにも宴らしい騒ぎ方をしている傍らで、窓辺に陣取った私とその若武者だけがすっかり切り離されてしまったかのようだった。彼はぽつりぽつりと私と言葉を交わし、まるで無尽蔵に次々と徳利を空けていった。
「酒、お強いんですね」
そこら中に散らばった徳利をかむろに言って下げさせてから、私は彼にそう声をかけた。窓の外を眺めていた彼の、酒気を帯びてほんのり和らいだ目元が、ここへ来て初めて私をまっすぐに見た。怯むほど強い視線だった。
「貴殿は、あまり進まぬようだが」 「お恥ずかしい話ですが、酒は滅法弱くて」
そうか、と呟いてわずかに目を伏せると、彼はまた酒杯を呷った。窓の外に広がる華やかな色街の風景を目の端で見ながら、差し出された猪口に酒を注ぐ。呑めや歌えやと騒いでいる人々の声など聞こえなくなっていた。
「名を、訊いていなかったな」 「名前、と申しいす」 「俺は、…源次郎と言う」
げんじろう、様。口の中で復唱する。かすかに吐息のような声が、自分の口から漏れた。 酒の所為だろうか。熱っぽい色を帯びた彼の目が、こちらを見ている。目を合わせられないのは、部屋に入ってきたときから恥じ入る様子だった彼よりも、むしろ私の方だった。
かちりとぶつかった猪口と徳利の口を見ると、酒が溢れてこぼれてしまっていた。畳の上にぽたりぽたりと、染みが広がる。
「とんだ失礼を。申し訳ございません」 「気になされるな。俺は平気だ」
手拭いを探して首を回した私の顎を、そっと彼の手が捉えた。 彼の方を向かされたのと同時に、熱いものが唇に押し付けられる。柄にもなく驚いてぼけっと開いたままにしていた口の中に、温い液体が流し込まれていく。喉を下っていく熱さに、すぐにそれが酒だと気付いた。しかし何か言おうにも、彼に舌を絡め取られてどうにもできない。
その場に押し倒されるような勢いで口付けられているというのに、自分がした唯一の抵抗といえば弱々しく肩を押し返したその一回のみ。後はされるがまま執拗に舌やら唇やらをなぶられた。 先ほどまでのうぶな彼などどこにも居ない。 蕩けかけた思考を、わずかに残った理性で繋ぐ。けれど唇を離した彼が、武骨な指先で精一杯優しく私に触れていることに気付いて胸が震えた。 嫌じゃないなんて可笑しい。私はまだ新造出しもしたばかりで水揚げも済んでいない。要は不慣れで、むしろ男に触れられるのを嫌う性質でこの先を危ぶまれているくらいなのだ。 それなのに。
「あなたの部屋はどこだ?」 「あっちの、突き当たりに」 「では行こう」 「え、でも」
水揚げなんかはもっと店主なんかと話し合って決めるもんなのだと思っていた。現に呉羽姐さんだってそうだったし。こう言っては何だが、一角の武将くらいの身分でなければ、お職を約束された私のような女は抱けないはずなのだ。彼のような若造にそんな財も権力もあるまい。
しかし彼はあっさり私を宴席から連れ出し、私が仕事のために与えられている部屋の障子を開け放った。
そのまま一夜過ごした私の、寝覚めは最悪なものだった。 私の水揚げをご所望という御大尽がカンカンだと言って女将に折檻される夢を見た。度を越したいたずらの度々、火責め水責めを受けた記憶がまざまざと甦る。
しかし隣で寝入る彼の顔を見ると、不思議と嫌な気はしなかった。どこかの大店の旦那に抱かれるよりはずっと良い。考えるだに胡散臭い話だけれど、一目惚れというやつか。それとも、こんなことが初めてで自分は舞い上がってしまっているのか。
障子の外はだいぶ明るくなっていた。放り出して来てしまったけれど、前田様は昨夜あの後、やっぱり呉羽姐さんのところで泊まったのだろうか。
源次郎様が横で呻いた。かすれた声が確かめるように私を呼び、背の後ろから手が伸びてきて引き寄せた。ああこれが本当に、見るからにうぶなあの青年だろうか。
「名前?顔色が優れぬようだが、どうかしたか?」 「夢見が悪かっただけです」
口から出たのは、自分で思ったよりずっと冷たい声だった。私は自分で考えている以上に、自分が可愛く又自らの行く末が心配らしい。 彼はいつかの前田様のように、特別気に留めた風もなく少し笑い、私を抱く腕にそっと力を込めた。
「昨夜会ったばかりのあなたにこのようなことを言うのは可笑しいかもしれないが」 「……なんでしょう」 「俺に、身請けされる気はないだろうか?」
どやどやと騒がしい外の音が、いっそう耳の近くに届く。何を言われたのか、よくわからない。昼見世の支度をしなくてはいけないのに、と頭の隅で考えていた。
「名前」
袿に目をやった私の次の動きを気取ったように源次郎さまが、骨が痛むほど強く引き留める。乱れた髪を掻き分けてうなじに落ちる唇の熱が昨夜の熱に重なって身体の芯が痺れるようだったけれど、彼の、武士の端くれらしくたくましい腕が強いことを言い訳にはしたくなかった。何のための身売りか。もっと稼いでこんな廓なんか出ていくためにも若造ひとりにかかずらっていてはだめだ。 そう思いはするのにだめだ。今一度ふとんの上に組み敷かれて、見えるのは彼だけで考えられるのも彼のことだけだ。
「俺の名は真田源次郎幸村。上田の城主だ。あなたの身を請けるに不足無いはず。……それとも、俺では不服だろうか?」
答える前に唇は塞がっていた。 隙間の開いた出窓から外の通りのざわめきが聞こえる。夜が盛りの色町の昼日中に寝惚けた空気に浮いているような心地で私は瞼を下ろした。店の中からは昼見世の支度をする女たちの足音が時おり響く。肩を腰を掻き抱く男の腕がじわりと冷えかけた私の身体に熱を分ける。 姐さん方はどうやって恋しい男を見つけてくるのか今までは見当もつかなかったけれど、調子のいい口説でもなんでも使って繋ぎたい男なら今、私の目の前にもいる。
「源次郎さまがわっちを買ってくだすったらどんなにか」
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