及川徹の手が好きだ。サーブのとき、ボールを頭上へ投げた瞬間にその長さが最も際立つ端正な指。手の甲に浮いた頑健な骨組み。充分だった。気の遠くなるような途方の先から、あの大砲みたいに空間を切り裂くサーブが、鈍く重そうな音でコートを叩くのが聞こえた。充分だ、私は恋をしてしまった。 ビューティフル・プレイ・オン・ザ・ワールド 「高校のとき、及川のこと好きだった」 及川はちょっと怪訝そうに眉を上げると、うなじに当てていた手でそこを撫でさすった。 「初耳なんですけど?」 「人に言ったの初めて」 及川は当時からずっと、女子に好かれるのは慣れてまーすというふざけた感じだったので、だったら友達でいたほうが楽しかったし、そういう及川に真剣な片思いをするのも、私がそうなのだと周りにばれるのも嫌だった。 私が好きになった及川徹は、私たちとはもっと全然別の世界に立っているような気がした。だからこそ、あんまりなことに何の望みもなかった。 そう思ったから誰にも言わなかった。 中途半端な切れ端ばかり残ったシーザーサラダの木のボウルを、先に黒いシリコンの付いたトングでつつき回しながら彼は言葉を探している。私はサングリアの細長いグラスの中で、氷と一緒に窮屈そうに浮いている白ぶどうをマドラーでつついて沈めた。半月型のライムとりんごにまとわりついた炭酸の気泡が、氷の揺れと一緒に立ち上ってくる。 「でもその高校のときに、俺のことイケメンって思わないって言ったじゃん」 「顔がどうとかじゃないんだってば」 イタリアンバルの、溶けたようなオレンジ色の照明に彼の顔の造作が浮き彫りになっている。初めてふたりで飲んだときにはとても変な感じがした。高校生のときには妄想の中にしかなかった距離で見る彼の顔を、今はもう見慣れている。不思議なことだった。 「俺の首から下の身体が好きってこと?肉食だね名前」 「今かなり乙女チックな気分で打ち明けたのにそういう言い方しないでくれる」 及川は、「だって」と口ごもりながら冷たい汗をかいたハイボールのグラスを傾けた。だって、って。変にかわいこぶった言い方が呆れるやら可愛いやらでつい鼻先で笑うと、相手は憮然としたように鼻を鳴らした。 最初のきっかけが思い出せないけれど、こんな風にふたりで飲むようになったのも私から誘ったわけではなかったと思う。及川から、気軽なメールや電話の一本でというだけのことだった。高校を出て大学に入って、酒が飲める年になったから。気軽に声をかけられる距離にいるから。そのくらいのことだった。それでいつの間にか、居酒屋にふたりきりでいることも大して珍しくなくなっていたのだ。 高校生のときは教室の中でしか話さなくて、HR終わりに分かれたらそれきりだった友達。 たった一度見に行った彼の試合で、あんなにどうしようもない恋をしたと思ったのに、そのことを昔のこととして告白して胸も痛まない。きっと今もどこかに好きな気持ちはあると思うけれど、こうして友達として飲むのが楽しい。そのくらい今は穏やかな気持ちなのだ。 「今は別にそんなこと思ってないし、安心して飲みに誘ってくださいね、及川サン」 「お前が今も俺のこと好きでもふつうに誘うよ、俺」 及川はさらりと乾いた口調で言うと、ハイボールを呷って飲み干した。細かい氷だけが残ったグラスを置いて、彼は飲み物のメニューを開く。 「いやなやつだなあ」 私はまだ、薄まり続けるサングリアをかき混ぜている。 夏の体育館の、2階の大きな窓が開いていて、吹き込んだ熱い風にクリーム色のカーテンが私の身体を巻き込んで翻った感触を覚えている。 あのときコート上の及川の、熱を持って静まりかえった顔を見て、自覚したばかりの恋があっという間にほぼ完成された諦めに覆われていくのを感じていた。ただのクラスメイトだったはずの彼のことを、コートの上の及川徹として好きになるのは途方もないことだった。 目の前にいる及川が、あのさ、とやわらかいのに男っぽい声を出す。 「今の意味分かって聞いてる?」 開きっぱなしのメニュー表と、グラスや箸や空き皿を脇に押しのけて、とろけるようなオレンジ色のくちびるが言う。 私は誤魔化し気味にサングリアを口に含んだ。流れてきたりんごを噛むと、炭酸とワインの風味に負けて味はほとんどしなかった。 「言葉の裏とか読めないんですけど」 「そのまんまの意味なんですけど?」 「女の子に好かれるのは慣れてまーすってこと?」 「じゃなくて。ふつうに考えて、こんな頻繁にふたり飲みに誘ってるのがどういうことかわかんないかな」 途中から及川は頬杖をついていた。顔の輪郭をまるごと隠してしまうような彼の手や、今しているのと同じどことなく呆れたような、「しょうがないな」とでも言いたげな目じりを下げて笑う表情を私は見慣れていた。彼は今みたいに向かい合って酒を飲むとき、決まっているみたいにそうやって私を見る。 「ちょっとくらいもしかしてとか思ってくれないと、及川さん形無しだなァ」 ハイボールの下に敷いていて湿ったコースターの端を、及川は長い人差し指でいじっている。私はのろのろと白ぶどうを噛んで、時間をかけたサングリアをついに飲み干した。 まるで畳みかけるみたいに少しテーブルの上に身を乗り出した及川は、そのくせどんな顔をしたらいいかわからないようだった。 「考えたことなかった」 「何を」 「そうかもしれないって」 彼はたっぷりと視線を迷わせて、少し強めにコースターの端を引っ掻いた。 「ひっどいよね、本当」 及川が顔を上げる間際、まばたきをした一瞬がものすごく長く感じる。緊張で喉が詰まった。 今日こんなことを言われるなんて思って来ていたわけじゃなかったのに、彼が次に言うことを期待している。 「好きだよ、名前。確かに俺いやなやつかもしんないよ。けどさ、こんな嘘つかない」 私は信じられない気持ちで彼の手を見ていた。 端正な長い指。手の甲に浮いた頑健な骨組み。あんなに遠くにあったはずのものが、今は目の前にある。さわれそうなほど近くに。 「ねえ、もう俺のこと好きじゃない?」 ずるい聞き方だった。彼いわく、私もひどい女であるらしい。それならもう、彼の目を見てただ少し笑うだけでいいような気がした。 title:深爪 ×
|