彼がこれまでその腕で抱きしめて、足を絡めて顔を寄せ甘言をささやいてきた、その女たちのことを考えてしまう。 きっと同じことを言ったに違いない、きっと同じように私も過去になっていくに違いない、………悲しいことや苦しいことばかりが現実に起こるような気がしてならない。 私のこのいかにも後ろ向きで面倒なところを彼が既に悟っているとしても、この先進んでそれをさらけ出す気にはならないだろう。とっくに知られた内心だとしても私にも多少の矜持がある。本当はどんなにみっともない女なのだとしても上辺を取り繕って笑うくらいはなんでもないのだ。 「煙草か酒、どっちかやめたら」 「そのどちらか決められたら苦労しねえな」 居酒屋のがちゃがちゃした賑わいが、伊達くんは似合わなかった。ロックのグラスを持ち上げる指先が、細いのに男らしく武骨で、見とれてしまった私はいたたまれない気持ちになる。彼は最近、私の視線をあまり気に留めない。 何見てんだとか言って無造作に私の髪に指を入れてひっかき回すような、そういう他愛ないことをあまりしなくなった。 彼をとても好きだから嫉妬心に駆られるのか。それともこの私を一番にしてくれないなんて、と自己愛の塊が彼を責めているだけなのか。 分からないのだ、たまらなく好きだと思う気持ちに、本当にそうなのかと問いかけて水を差す自分がいる。 「そうだ、明後日なんだけど」 「飲み会だろ?聞いた」 「あ、言ったっけ」 「今日も飲んでてよくやるぜ」 「好きなの」 濡れてつやつやした氷をグラスの中で揺らすと、からりと高い音がした。彼の手を見ていたことはなかったことになる。私が見ていたって彼は気にしないし、わざわざ指摘するようなことをもうしない。 「……そろそろ出るか」 「え、もう?」 私が目を剥いて驚いているのに彼からは一言、おー、と軽い生返事が返ってきた。伊達くんはすっと立ち上がって、私がもたもたと荷物を手に取るのを見つめている。 店に入って一時間くらいは経っていたかもしれないけれど、いつもはもう少し長くいるのに。 会計に向かう途中で鞄から財布を出した私をちらっと一瞥したものの、彼は何も言わずに今日の満額を払ってくれた。お金、と切り出そうとした私をまたちらっと見た伊達くんは「いいから行くぞ」とぞんざいな態度で私の手を引いて店を出る。 何か気に障ることをしただろうか。 考えている間にも伊達くんの歩調が速くなっていく。 「ねえ、なに、どうしたの」 ショートブーツの踵が忙しなくカツカツと音を立てている。足がもつれそうだった。 「何も。……俺ん家行くぞ」 顎の先がかすかにこちらを振り返った。刺すような目で見られて言葉が出なくなる。彼の呟くような低い声はいやに色っぽい。……怒っているときと欲情しているときのどちらであっても彼はこんな態度を取る。 今日は、そのどちらのきっかけも作った覚えはない。 駅前から少し歩くとすぐに彼の一人暮らしのマンションは姿を現す。もう何度も来ているのに未だに入るのを気後れしてしまう。 集合玄関のセキュリティを通り抜けるとき、伊達くんが不意に強く私の手を握り直した。今日はほとんど飲んでいないのに、彼の些細な行動のひとつひとつのせいでくらくらしている。 エレベーターに乗り込んで、彼の肩を見つめている間、彼はいま何を考えているのだろうかと、臆病な気持ちで考えてしまう。 ドアが閉まった。オートロックが作動したのをその音だけで知った。背と肩に玄関先の壁の冷たさを感じる。伊達くんの片手が私の顔を掴んでいて、もう片手は私の横腹に沿っての線をなまめかしくなぞってから腰を抱いた。 抵抗したり、受け入れたりする時間など私にはなかった。されるまま、精一杯壁に張り付いているしかなかった。 顔が離れて目が合う。とたんに、彼の身体や腕が私を巻き込んで、その場に崩れるようにふたりしてへたり込んでしまう。ずるずると壁と摩擦するコート、髪、もつれて音を立てるヒール。絡むように唇がふれたまま、今度はフローリングの床が冷たい、と思った。湿った唇の間が今日はやけに無味だ。 「伊達くん」 「なんだよ名前」 「どうしたの」 「どうもしねえよ」 彼の胸に添えた、形ばかり押し返す格好の手のひらの下が、なんだか平坦だ。彼がシャツの胸ポケットに常備しているライターがない。 「ねえ、今日は煙草、吸ってないんだね」 「……どっちか、つったら煙草だろ」 「え?」 聞き返すと、彼はバツが悪そうに口角を下げた。 「禁煙してんだよ、五日目だ。お陰様でいらついてしょうがねえ」 ─煙草か酒、どっちかやめたら 確かに今日が初めてのせりふではなかったが、彼がそれに従うだなんて思ってもみなかった。呆然としている内に彼の手は進んでいく。 「伊達くん」 彼は答えなかった。苛立っている気持ちそのままみたいに荒っぽいキスがとても嬉しい。どんなことであれ私のせいで彼が余裕をなくしていると思うとたまらなかった。 「ねえ、もしかして私のことすごく好き?」 「知らなかったのか?そりゃショックだ」 喉に引っかかるような笑い声に、くすぶって熱を上げる苛立ちが隠れている。 執拗なほどのキスを堪能する間、彼の整った歯の列を舌でなぞって、そこに染み着いたように残るかすかな煙草の味を転がす。とても嬉しいのにどうやってそれを伝えたらいいのか分からなかった。語彙が足りないことを、いつもこんな場面になってようやく後悔する。嬉しいことは嬉しいとしか言えないし、そこに対する意味付けや理由や経緯の説明ができない。 いつも不安でたまらない。今までの女とは違うと言われる度に、自分のあり方がわからない。どうすればいつまでも彼といられるのかそのことばかり考えている。 「お前、一回ごちゃごちゃ考えんのやめろ」 「……ここじゃ無理」 「上等だ」 せめてこんなときくらい、あなたには私以外なんにもないと自惚れたい。 脱いだブーツが横倒しになった。彼の手を借りずに歩き出した私の腰に、這うように添えられた手が熱くて、アルコールは全部吹っ飛んでしまうような気がした。 コートからタイツまでその辺に散らかすように脱いで、 ふと、彼が黙ったままだと気付く。足下はさっきよりも覚束ない。 彼は突然冷めてしまったみたいに私を見ていた。 「ねえ、どうしたらいいの、私」 「俺が聞きたい。俺はどうしたらいい」 几帳面な彼の清潔なベッドに、私は叱られた子供のように座り込んだ。怒らないで、だとか、どういう意味だとか、言いたいのに、言っていいことかわからなくて私も黙ってしまった。 「私たぶんあなたのこと愛してるよ」 「俺はお前に惚れてんだぞ……たぶんは余計だ」 彼の手が伸びてきて、肌にさわった。じわりと、興奮が目を覚ましたように身じろぐ。恐る恐る彼の目を見ると、彼も私と同じだった。 この関係を続けられるかどうかはきっといつもここからでしかないのだ、ずっと。 それならいい。私は彼が好きだ。それだけでいい。きっと彼も同じだから。 title : 獣 ×
|