中一のとき、バスケ部の副将が好きだった。三年生で、足首にミサンガをしていた。ミサンガなんか運動部の中では目立った特徴でもないのに、その人だけが特別に見えたのはそれが恋だったせいだ。きっと、たぶん、そうだ。 たぶんあれは私の初恋で、そのせいでバスケットマンは私にとっての憧れだった。手の届かないアイドルみたいに。 「深津」 呼ばれた方は無言で振り返った。無表情な横顔。 「これから部活?」 「ん」 「私、日誌出しに行くんだけど」 私がみなまで言わない内に、深津はすっと私の隣に並んだ。途中まで一緒に、と出かかっていた言葉をしまう。 変な語尾のせいで彼が口を開く度に、彼が口を開いたという印象が強く残るので彼がものすごく饒舌な人のように思えてしまうが、案外、普段の深津の口数は多くない。いつも私が一方的に話しかける形になるけれど、彼のていねいな相づちが私の口の滑りをさらによくさせる。リノリウムの床に、まだ強い西日がかかって眩しい。 職員室の前ではち合わせた数学の担当教師が、不意に、お、と声を上げた。どうしたお前ら、と言われて私は日誌を、と言った。深津はこれから部活です、といつもの語尾が嘘みたいにていねいな敬語で言う。 その私たちの並びを見て、ラグビー部を見ているおっかない先生は、「お前らまさか付き合ってんのか」と気軽な調子で聞いた。 「ああ、はい、一応」 答えたのは私だけだった。深津は私を見ていた。 「へえ。なんつうか、妙に老成したカップルだな」 老成。面食らって目をしばたたいた私の代わりに、深津が 「余計なお世話です、ピョン」と言った。 取って付けたような語尾のピョンに私が笑うと、今度は先生の方が面食らった。 深津は、ピョンピョン言うのが変なだけで、至ってふつうの男だったし、もちろん高校生にしては異様に落ち着いていたけれど、年相応なところもあるにはあった。ただ、バスケットプレーヤーとしての彼は日本一の高校生たちを率いるキャプテンとして、その並々ならない技術力、精神力、また冷静さを高く評価されている、らしい。 私は深津がバスケをしているところを見たことがなかった。浮ついたギャラリーなど寄せ付けない、バスケ部の練習。大会には工業高校の中では数少ない女子もいくらかは応援に行くと聞く。でも私は行ったことがなかった。彼氏の活躍に興味がないのかと聞かれても、私の心持ちはあいまいだった。 開放された体育館の入り口。フットワークをしている最中の足下。無邪気にふざけ合う笑い声。バッシュのスキール音。まだ強い西日が体育館の濃いオレンジ色の床の端を照らしている。 きっとあの人は深津のように、高校バスケット界を牽引する存在、などと言われるほどバスケが上手かったわけではない。でも特別だった。私にとって。 「苗字」 深津が私の顔の前で大きな手をひらひらと往復させる。 「ん?」 「もう行くピョン」 「……うん」 日誌を届ける相手は不在だったので仕方なく机に置いてきた。 深津は一瞬、何か言いたげに私を見て、でもすぐに体育館の方に歩き出した。私はその途中で道を折れ、階段に足を向ける。 「じゃあまた明日」 深津は立ち止まってじっと私を見て、静かに頷いた。 いつも別れ際に唐突に感じる。彼は私の内心の、あられもなく彼を思う気持ちを見透かしているのではないか。 「深津」 学ランの裾を控えめに引っ張る。緊張して指先が少し気色ばんでいる。深津はおとなしく突っ立ったまま、右手を迷うように揺らした。いくら人通りがないからといって、廊下のど真ん中で急に何かしようとする彼ではない。 私たちは、お互いに今こうして目の前にある関係を他人事のように俯瞰していて、それなのにお互いを好きな気持ちが相手に伝わっていることだけはしっかりと自覚していた。なるほど、これを老成と呼ぶのだろうか。 「主将の遅刻は部員に示しがつかないピョン」 「うん、ごめん」 制服の裾を離す。彼が背を曲げて屈むと、私の顔の上に影がかかった。キスやハグみたいな愛情表現は、実は彼には少しも似合わないが、それでも彼のするていねいな、静かな、私の反応を慎重に観察するようなそれはとてもいとしかった。 余韻が恥ずかしくてしかめつらしく眉を寄せる私の顔をのぞき込んだ深津が小さく笑う。……珍しい。 彼の静かな視線が好きだ。めったに笑わないのに真顔でふざけたことを言う意味の分からないところや、私の意を汲んで先回りしてくれる大人びた対応や、ときどき顔色も変えずに照れるところが好きだ。 「なんで分かったの」 「そういう顔してたピョン」 髪にやさしく絡む長い指の先が、つとうなじを撫でる。 その変に触り慣れたような指先の使い方。彼は「ボールさわるのと変わらないピョン」と言うがどうなのだろう。彼は恋人にさわるようにバスケットボールにさわるのだろうか。 晩夏の体育館。バスケットマン。憧憬や初恋は美しかったけれど。 でも、隠すことも気おくれすることもなく相手を好きだと思うことができる幸福を知ってしまった今となっては、思い出はその影に褪せていくばかりなのだ。 「じゃあ、また明日ね」 深津はその大きな手で私の頭を二、三度撫で回してから、今度こそ体育館の方へ消えていった。 ×
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