大金を積まれて店を閉めた男の話:
……サー・クロコダイル?知っていますとも。有名人でしょう。会ったことがあるかって…?
……誰にも他言しないのならば。……ええ、確かに、来ましたよ。私も、いまだに信じられなくて。いや、やはり黙っていた方がいいのかもしれません。混乱しているんです。あの夜のことは、できるだけ、思い出さないようにしているんです。ひとりでは思い返しても怖い思いをするだけ。あの眼の冷たさといったら!人殺しの眼とはこういうことをいうのだと思いましたよ。
見た目は、怖ろしくはなかったです。鉤爪をのぞいて、ですが。アスコットタイなんてした紳士的風貌をしていて海賊らしさはなかった。とはいっても、あの晩、そんなじっくり見る余裕はなかったですけれど。あとで新聞を見返してやっと、そういえば、そんな見た目だった、と思った程度です。
砂漠の英雄。なんていわれてても、海賊はやはり海賊なんだと思いましたね。もう関わりたくないですよ。
何をされたか?……いえ、実際何か危害を加えられたとかはないんです。私からしたら大金を積まれて、店を畳め、と迫られた、というだけで。元々そんなに儲かっていませんでしたから、実質的に被害なんてものはなくて…でも言外に、言うことを聞かなかったら殺してもいい、と言っていたと思いますよ。あの右手が、喉元を抑えたときの身の毛がよだつ感触は忘れられない。力が込められてるわけじゃないのに、身体が凍ったように動かないんです。
なまえには悪いことをしましたよ。でも、客も来ないし、街から人も減っていた。きっと潮時だったのだと思います。
大金を積まれて店を閉めた男の話を聞いた女の独白:
『あの人』って存外人使いが荒いの。秘密結社のマネジメント、カジノの実質的な経営、ペアとして、つまりミス・オールサンデーとしてのタスク、それに加えて私用のため、こんな僻地まで人を寄越すんだから。嫌そうに聞こえないって?フフッ、確かに、案外、嫌じゃないのかもしれないわ。だって、人にプライベートを徹頭徹尾隠すあの人がわたしにこんな用事を言い付けるんですもの。それも、不承不承といった様子で。
あの店主経由で、なまえに真実が伝わるのが相当嫌みたいね。何を企んでいるのかはわからないけど、何かを企んでいるのは確かでしょうね。
わたしが本当に処分していないことにも気づいてるでしょうけど。でも、口さえ封じてやれば十分な筈。あの人にいわれるがままにしていたらあっという間に屍の山ができてしまうわ。
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『それ』をなまえがみつけたのは、偶然だった。クロコダイルの書斎のソファに、コートが雑に放置されているのを偶然、開いたままだった扉の隙間から見つけたのだ。「愛用しているコートだから、きちんと掛けてしまわないといけない」となまえは、思った。だから、いつも遠慮して入らない彼の書斎に足を踏み入れたのだ。
ソファの傍のサイドテーブルに置かれたままのファイルをみるつもりなどなまえには欠片もなかった。クロコダイルは、世界政府公認、王下七武海。だからこそなまえは知ってはいけないことが多くあるとわきまえていた。
なまえには、盗み見る意志などなかった――けれど、その黒い革張りのファイルから覗く書類の一部に、なまえの名前がみえて、胸が騒いだのだ。どくん、と心臓が鳴る音が聞こえた。嫌な予感に背筋が冷たくなった。
震える手でファイルを手に取って中を開く。眩暈がした。紙を捲るたびにあらわれるのは、なまえの生い立ち。それに勤め先のオーナーの身辺調査、なまえのかつての居住地域の地理情報、天候情報、それらに基づいた予想被害について、その他諸々事細かに調べあげた報告書だった。そして、それは、なまえに最悪の想像をさせるのに十分な質量があった。
なまえは今すぐにその場から逃げてしまいたかった。身体を支配するのは、言葉にできない恐怖だった。クロコダイルから―――というより寧ろ、自らに迫る得体の知れない巨大な影から逃げだしてしまいたかった。
なまえには、それなりの自由を与えられていた。つまり、家を空けがちなクロコダイルがいなくても暮らしていけるだけの経済力とクロコダイルの不在が多いことによる監視のない自由な環境だ。逃げることは、不可能ではなかった。だから、何も後先考えずに、なまえはその場を去ったのだ。