003

満月が高く上がる夜更け。客の来ないバーの主人は、人の気配を感じて、新聞におとしていた視線をあげた。客の姿はなかった。入口近く、扉にかかったランプの光が主人の顔をゆらゆらと照らす。気のせいかと肩を落として溜息をついた。もういっそ夜は閉じてしまおうかと近頃はよく考える。

寂れたオアシスは、めっきり客足が減った。かわりに賞金稼ぎの姿が随分と増えた。粗忽者ばかりだ。夜、なまえに店番を頼まなくなったのも、そのせいだ。最近は、妙な輩が集団で出入りする。明らかな偽名で、お互いを“ミスター”、“ミス”なんて気取った風に呼び合う。話す内容もどことなく不穏である彼らを、内心歓迎していなかったが……かといって、贅沢もいっていられなかった。

夜を静寂がつつんでいた。静寂と退屈。また、溜息をつく。あまりの退屈に睡魔が思考を蝕みつつあった。ばさりと読みかけの新聞を畳む。瞼を閉じてあくびをしかけたときのこと。

「主人―――」

耳元で、低い声がして、思わず立ち上がった。相変わらず人の姿はない。空耳だと思った。けれど、後方を振り返ろうとした肩を、何者かの手が掴んで留める。力のある手だった。けして強くつかまれているわけではないのに、逆らうことを許さない圧力がある。緊張に身体がこわばるが、ようやく視線だけをずらして相手の顔を盗み見た。

傷の走った高い鼻梁。整然と撫でつけられた漆黒の髪。見覚えのある顔だった。『砂漠の英雄』――確か、そんな大仰な見出しと一緒に、ちょうど、新聞にのっていた。ニィと口元に笑みが浮かんでいる。視線の合った瞳はちっとも笑っていなかった。

「ひとつ、頼みごとをしに来た」

肩をつかんでいた大きな手のひらが移って、そっと首元にあてられる。主人は、ごくりと唾をのんだ。鎖骨近くからゆっくりとのぼって、だんだんと喉元を締め付けてゆくそのさまは、蛇が徐々に獲物を絞め殺す様子を連想させた。







「家が、なくなったんです」
「家が?」

なまえは、くたりと花がしおれるようにして頷いた。力なく俯いたまま、うなだれている。顔をあげることができない。それほどの気力も残っていなかった。視界が揺れている気がした。絶望は、緩やかに窒息させていくという意味で、酸欠に少し似ている。

「……家が、砂嵐で、なくなって」

砂嵐。それ自体は砂漠の国で珍しいものではない。繰り返す歴史に抗うすべを文化は培い育んできた。けれど万事につき限界はある。人手不足。物資不足。修復が追い付いていなかった。さらに、運悪く、なまえの住む地域に砂嵐が直撃した。その被害の深刻さは残された爪痕からも察せられた。すべての要因が不幸にも重なってのことだった。

「砂嵐……確かに日照りが続いているが、まさか……」
「ほんと、夢だったら、って思うんですけど……」

あはは、となまえが虚ろな目をして笑う。乾いた笑みは、長く続かなかった。粗末な手入れのなまえの乱れ髪は枯れ草を思わせた。

「実は、ちょっと前に、仕事も解雇されて。お店を畳むそうです。ほんとに、突然だったんです。理由を聞いても、オーナーは教えてくれなくて……でも、最近、よく暴動も起きるし、景気も良くないし、きっと仕方ないんですよね」

ぽつりぽつりと口にだしているうちに、やっと現実が飲み込めるようになったのか、なまえの声は啜り泣きがまじり始める。最後は言葉にならず、殆ど泣き声だった。

「わたし、もう、どうすれば、……いいのか、わからなくって」
「それなら」

クロコダイルが、なまえの腕をつかむ。なまえは驚きに顔をあげた。その瞳には涙があふれるばかりに溜まっている。それをみて、クロコダイルは顔を顰めた。

その震える身体を、クロコダイルは抱きよせた。なまえは、一瞬あらがう。着の身着のままで逃げて、薄汚れた姿で、小綺麗なクロコダイルの胸の中に飛び込むのには、抵抗があった。

けれど、力強く引かれ、ついには温順しく抱きかかえられる。なまえは、きつく下唇を噛んた。人の体温がしみて、堪えた涙が溢れそうだった。

「……おれとくればいい」

クロコダイルは、なまえの頭をなでてやる。途端、泣きじゃくる声が溢れだした。色とりどりの指輪が嵌る右手でその絡まった髪を梳いてやりながら、しかし、その裏では満足げな笑みがクロコダイルの表情を飾っていた。

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