――馬鹿だなあ、とおもった。この人は、なんて馬鹿なんだろう、と。
静かな部屋。やわらかなソファの上に、スパンダムになだらかに押し倒されたなまえはぼんやりと天井をみつめて、最初はそんな感想をスパンダムに抱いていたことを思いだしていた。肩口に顔をうずめる男の、震えた吐息が肌をくすぐって、ずくりと腹の底に熱がたまっていく。抱き縋る。そんな表現がぴったりの姿勢だった。
「……なまえは、おれのことが、好きだよな?」
声は小さく、震えて、迷子になった子どもみたいに頼りなかった。こんな姿、こんな声、人前じゃみせない。ドジとマヌケはいくらでもするけれど、狡猾で虚栄心と自尊心の強い彼は、あからさまに弱った姿をすなおに人にみせはしない。なのに今、何もかも曝けだして、こんな無防備な様子を晒している。
なまえは、わけがわからない感情のうねりに震えそうになる手先をおさえて、スパンダムの薄紫色のやわらかな髪をそろりと撫でた。それは、薄めた水彩絵の具みたいに透明で、綺麗な色をしている。ふれた瞬間、緊張にこわばっていたスパンダムの身体がぴくりと震えた。
「好きですよ、スパンダムさん」
自分の台詞なのに、まるで他人事みたいに聞こえてなまえは、笑ってしまいそうになった。――あなたの地位と権力と富に目が眩んだ。それだけの力を手中にしておきながら、なんて容易く落とせそうなのだろうとおもったから、近づいただけ。だから、馬鹿だなあ、なんておもったのだ。……おもっていたのだ。
言葉をきいて、縋りつくように抱き着いていたスパンダムが、もぞりと身じろぐ。腕をついて、少しだけ身体を起こす。吐息がかかる距離でみつめられて、心臓がどくんと脈打った。緊張した顔、何かをいいかけ、躊躇して少し開いたままの唇、熱っぽい瞳。
「なまえ。キス、してえ。……いいか?」
拒まなかった。……拒めなかった。拒んだら、泣きだしてしまうのではないかというくらい切実な色を宿した眼差しだった。こんな目ができるのかと、なまえは驚いたまま、不器用に頷く。すると、そろりそろりとたどたどしく唇をあわせるだけの稚拙なキスが施される。はなれた瞬間、はあと零された熱い吐息が唇にかかった。
「………もっと、なまえに触れたい」
その言葉は意図するところを汲んで、なまえは躊躇った。
「なあ……、なまえ、いいか?」
シャツを捲って、下腹部に忍び込む手のひらの低い体温を感じる。餌を前に許可を待つ犬みたいにおとなしく、けれどちょっとばかり待てができない駄犬だ。触りたいとおもっている、そして、それを我慢してるのがあまりにわかりやすくて、なまえは妙な気持ちになる。諦めて、唇を引き結んで、目を瞑って、ぎこちなく頷くと、腹を温めていたスパンダムの手のひらが、するりと、横腹をつたって、肋骨をたどるように撫でて背中にたどりつく。そのまま持ち上げるようにしてきつく抱きしめられると、耳朶にスパンダムの唇が触れた。
「好き。好きだ、なまえ……」
うわごとのように繰り返される言葉にのる切実な調子に、なまえは、ぎゅっと身体の芯を捕まれたみたいな痺れを感じた。
こくん、と「わたしも」の意を込めてすなおに頷いてから、絆されていたのは、どちらだったんだろうと、なまえは沈みゆく意識の中、おもった。
title by 獣