愛の音(ね)を紡ぐにはまだ早い

雪肌をおもわせる、陽の光を知らない、透明な肌。触ったらひんやりとしているのではないかと思ってから、なまえはその考えの莫迦々々しさにひとりで笑った。

朝の光の中、論文と書籍に埋もれるようにして、机にふせて寝耽るシーザーをみつけて、その、そう珍しくない光景になまえは溜息をついた。家に帰る時間を惜しんで、あるいは研究に没頭するあまり、教授室で夜を明かすシーザーは、心配になる。だから、どんなに文句をぶつぶつと言われようと、こうして朝一番にお邪魔するのをやめられない。すやすやと平和そうに眠るシーザーに目をむけると、論文を敷いて寝てしまっているので、起きたらきっと頬に跡がついていることだろうと思った。機嫌を損ねるので、うっかり笑わないようにしよう、と心に留めておいた。

鮮やかな濃紺の髪に朝日が射しこんで、その表面がキラキラと輝いていた。菫色に輝いて宝石みたいに光っていて指をとおしてみたいと思った。ゆるやかな巻き毛はやわらかく触り心地がよさそうで。しかし、髪に手をのばすかわりに、肩に手をおいてゆすって起こしてやる。

「…………ん」と、眠たげな声をだして、もぞりと、芋虫を思わせる動きでシーザーは身体を起こした。あくびをひとつ。眠たげな顔をして、目を瞬かせている。いい歳した男性だというのに、不思議な可愛らしさになまえは口元をこっそりと綻ばせた。これがもう少し意識がはっきりしてきたら可愛くない文句をいうのだけど。すんと鼻をひくつかせると、古い本独特の黴臭さと紙のにおいと、微かにコーヒーのにおいが残っている。この部屋のにおいが、なまえは好きだった。

「………なまえ?」
「おはようございます」
「なんでいんだ……」

飽きもせず、いつも同じやりとり。シーザーは、またおおきなあくびを零した。眉は顰められて、爽やかな朝にはちっとも似合わない顔をしている。起きてすぐは、不機嫌まっしぐらなのも、いつものこと。橙色に透きとおった瞳が、あくびのせいで涙ぐんできらめいている。

「コーヒー……」

完全に寝ぼけた声で、シーザーが呟いたので「淹れましょうか?」と聞くと寝ぼけ眼でじろりと睨まれる。潤んだ瞳で睨まれたところで、迫力も何もないのだけれど。

「湯だけ沸かせ」
「はい」

はいはい、と続けたくなったのを我慢して、なまえは手慣れた様子で、水道水を注いだケトルを火にかける。一度本気で淹れてあげようとしたけれど、眉をつりあがらせて文句をいわれたのでもう淹れてやらないことにした。インスタントしか飲まないくせして、微妙な味の濃度が気になるらしい。食事にはこだわらないというのに、その妙な神経質さはシーザーによく似合っている気がした。そのまま、ケトルの傍、シーザーからは少し離れた位置から、また論文の束に視線を戻してしまった背中を盗み見る。机は窓に面していて、光がさんさんと射しこんでいる。眩しくないのだろうか、となまえは目を細めた。

こつこつと、神経質な指先が、固い机をたたく一定のリズム。それにこっそりと耳を澄ませる。それと、かたかたと、ケトルが奏でる振動音。なまえは目を瞑ってそれを楽しむ。しばらくして、けたたましくケトルが鳴り始めてしまったのだけれど。

「沸きましたよ」
「そんくれェわかる」

寝ぼけ気味のシーザーの口調は、いつもにまして横暴だ。不機嫌そうに立ち上がる。ただでさえ、広いといえない教授室は、本棚とよくわからない実験器具と書類で圧迫されて、物ひとつとるにも不便する。ゴソゴソとシーザーがマグを探して、そうして見つけたのか、振り返ったシーザーは片手でふたつのマグをひっかけるようにして持っていた。思い返すと―――最初、ここを訪れ始めた頃は、すげなく追い返された。しばらくすると、シーザーは、朝のコーヒーを飲む時間に付き合わせてくれるようになった。最近、シーザーはふたつのマグにコーヒーを注いでくれる。

「相変わらず、よくわからない研究をされてるので?」
「高尚といえ。凡人には欠片も理解できねぇのさ」

ふん、と高飛車な様子で鼻を鳴らすシーザー。ぐっとなまえの傍、ケトルに手を伸ばす。狭い部屋では、どうしてもお互いの距離が近くなる。どんなときでも、シーザーには不思議な清潔感がある、と傍にある身体を見上げながらなまえは思った。朝一だというのに、顎に髭だって生えていない。よくわからない薬品のにおいがするのと、体毛も含めていろいろと薄い感じがするからだろうか、なんて考えて、ふいに思ったことが口をつく。

「そういえば、ふたりきり、ですね」
「………ッ!」

瞬間、息を詰める音。シーザーの雪肌に、まるで、火が付くように朱がひろがって。

「いきなり、何、ッ……!」
「何、動揺してるんですか?」

別に、何もおかしなこといってないですよ。いいながら、なまえはシーザーの手からそっとマグを受け取る。ひょっとすると、落としてしまいそうなくらい、シーザーは動揺をあらわにしていた。

「………なまえ、いいか。前々から思っていたがな、やはり教授と生徒とはいえ、男女が、こう、ある意味、密室で、ふたりきりでいることは、よくないんじゃねぇかとだな」

しどろもどろに言葉をつむぐシーザーは視線も勢いよく泳いでおり、それを、笑みを隠そうとしないなまえが見上げる。

「いっつも素っ頓狂なこといってるシーザーが常識的なこといってるの、面白いですね」
「ッ……!て、めェ!」

冗談です、となまえがおどけた調子でいっても、シーザーは落ち着かない様子で視線をさまよわせて「あえて意識しないようにしてたっていうのに」だとかブツブツと文句をいっている。

「う……なまえが、その、卒業するまで、だめだと決めたんだ」
「何が、だめなんですか?」
「聞くなよ………」

独り言に反応して尋ねてみると、情けない声でシーザーが返す。黒の革手袋をはめたままの両手が顔を覆ってしまったけれど、髪の隙間から露わになっている耳が、まるで冬の林檎のように赤くなっていて、なまえは笑った。




title by 星食

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