やわらかに蕩ける月光

身体が大きく傾く感覚に、沈んでいた意識がゆるやかに持ち上げられる。霞む視界に広がるのはみたことがない天井――いつもは神の社の、高くて白い天蓋がのぞくのに。腕をついてゆっくりと身体を起こすとぐらりと視界がまわった。震える身体を抱きしめる。薄靄がかった意識が漸う晴れるにつれ、体調不良だけではない震えが身体の奥から沸き上がる。底冷えのする恐怖。ぞっとするほど感情の抜け落ちたエネルの瞳。なのに、わたしをみる瞬間だけは薄い青色の瞳に感情がちらつくのが不思議で、怖ろしいと思いきれなかった。それが怖い。……思わず手を振り払った瞬間、エネルは確かに、傷付いた顔をしていた。エネルはどうしてあんな表情をしたんだろう………自分は、それよりよっぽど多くの人を傷つけたというのに。

暗澹とした思考の耽っていると、ふいに、何かが崩れ落ちるような大きな音が響いて、部屋がまるごとが、また傾いた。ずず、と重たい音とともに寝台が滑る。地響きのような振動が床を震えさせている。何処にいるのか、何故ここにいるのか、まったく事態を把握していなくても、流石に、何かが異変が起きていることくらいわかる。嫌な予感に胸が騒いで、心臓が駆けた。部屋をぐるりとみまわすと、窓一つない部屋の扉が目についた。いまだに震える床を、覚束ない足取りで、扉まで行くと、そっと耳をつけて外の様子を伺う。何かがどこかで崩れる音、壊れる音、ひび割れる音。人の気配はなかった。重たい扉は、力を込めると、不気味な高音をたてて開いた。



動力を雷とするマクシムは、その細部いたるところに、人体における血管のように黄金が張巡らされ、間断なくエネルギーを供給している。それがどこをどう蔦っているか、エネルは、当然のことながら熟知している。忍び込んだ鼠の片一方が、動力回路を破壊してくれた。それゆえに、現在、舟はおおきく傾き、ゆっくりと下降している。――貝(ダイヤル)の力で一時的に浮遊をしているが、可及的速やかに復旧させなければ。……やってくれる。悔しさに奥歯を噛締める。鼻の奥が熱い。先ほど殴られてでた鼻血がまだ垂れているのであろう、指で乱暴に拭うと、そのまま、思い切りガコン、と外れた歯車を力任せに捻じ込んでやる。どう足掻いたところで、この国の終焉が変わることはない。

ふいに気づいたのは、船内で動く小さな声。―――なまえ。目を覚ましたのだろう。ちゃんと加減もしたはずなのに、滾々と眠り続けていたのは、それだけ大きな衝撃を与えてしまったせいだ。なまえの恐怖で竦む青白い顔が脳裏をよぎったが、それでも、心臓を突き上げてくる焦燥が勝った。気づくと、足が駆けだしている。―――なまえが、たとえ拒絶したとしても、わたしは………、その先の言葉は続けられなかった。



空気が薄くて、いくら深く呼吸をしたところで楽にならない。数歩よたよたと歩いたところでもう限界を感じ、壁にもたれかかるようにして視線を先へと投げかける。近くから、そして遠くから、何かが割れる音、壊れる音が響いて、時折全体が、まるで地震のさなかに、地中にいるように、おおきく左右に揺さぶられる。それなのに、部屋のまわりも廊下も変わった様子はない。相当頑丈な造りをしているのだろう。それでも壁越しに振動がつたわってくる。それが脳まで揺らして、現実感が、あまりない。

「………なまえ!」

バチリ。青白い閃光がはじけたとおもうと、光があっという間に人の形をつくっていく。……顔をみなくても、そこに誰がいるのかなんてわかった。人の名前を切羽づまった呼ぶ声は、かつて、どこかで聞いたことがあると思った。――確か、前に、ほんの些細な怪我をしたときに、聞いた声。

緊張にこわばった顔をしていたエネルは、わたしを目を合わせた瞬間、心底ほっとしたような顔をする。不協和音が其処らから鳴るこの場で、血にまみれた顔で、それは酷く不釣り合いなものにみえた。怪我ひとつ負った姿をみたことがないのに。顔には乱暴に拭われた血のどす黒い赤が擦れている。日を透かして輝く程に透明な金色の睫毛も、朱餡色に汚れている。鮮やかな色の衣服が土埃と汚れで薄茶けている。すんと、鼻をひくつかせると埃と汗と鉄の錆びたようなにおいがした。

「危ないだろう」

困った顔をして、吐息のようなやわらかさで、エネルがいう。まるで、自分の状態なんてみえてないみたいに。エネルが、こちらに手をのばそうとして、止める。中途半端に宙に留められた手のひらを自分でみつめて、戸惑いに眉をよせている。――触れていいのか迷っているとすぐに気づいた。エネルが、怖くない……といったら嘘になる。けれど、引くつく喉に無理に唾をのんで、目蓋を細めて、頬をよせる。暖かい手のひら。恐怖がゆっくりと溶けていく。

「エネル、どうしたの?」

声が震えた。情けない。きっと、まだ少し怖い。それでも、わたしはこの寂しくて強くて哀しい人のそばに居たかった。……こちらにきて、独りぼっちで過ごすはずだったわたしの、孤独を癒してくれた人。

「血が……エネル、だいじょうぶ?ねぇ、どうしたの?」

わたしよりよほど大丈夫じゃない様子なのに、なんで、エネルはわたしを気遣っているの。もう片腕をあげて、まるで錆びた人形のようにぎこちない動きで、わたしの身体を抱き寄せようとして、躊躇するように肩をつかんだ。

「……今は、説明をしてやれるだけの時間がない。マクシムが、落ちてしまう……なまえ、」

顔を伏せたまま、絞り出すようなその声があまりに痛切な色がのせられていた。掴まれた肩から伝わる体温が熱い。

「…………五月蠅い声が、する」

独り言のような呟きは悍ましい響きを含んで背筋をぞくりと撫で上げた。ゆっくりと顔をあげたエネルは、また、あの無感情で冷たい瞳をしていた。―――彼に巣食う狂気は深く、凍える氷のように純粋で、わたしにはどうしてやることもできない。涙が目の端に溜まる。いったい彼は何をしているんだろう。知りたくて、知りたくない。足が震えて動かない。意気地なしでごめんなさい。何も出来ないわたしでごめんなさい。耳を劈くような地響きに似た轟音の中、誰に向かってか、わたしはひたすら謝り続けていた。



――――落ちる、墜ちる、方舟は、雲海をくぐりぬけ、いったんはそのまま青海に墜落するかと思われたが、そそぎこまれる莫大な雷を動力としてふたたび起動した。傷だらけの身体を引き摺るように、いくつかの壊れた舵がガタガタと不安定な音をたてながら、緩やかに上昇を開始する。

「還るんだ、“神”の……あるべき場所へ…」

ゴホ、と血交じりの咳がでる。満身創痍の身体に鞭打って、雷を放ったせいか荒い息は落ち着かず、浅い。存分に拳を打ち込まれた身体は、大きく呼吸をするだけで痛んだが、気にならない。すべては過ぎたこと。夢のように果てしない大地に向かってマクシムは空を浮かび上がる。はるか高くにある月は冴え冴えと冷えた光を投げかけてくる。視界を遮るものひとつなく、神々しいその光を浴びて――生気が抜け落ちるような虚無感を覚えた。息をすることすら忘れてしまう程の空虚な感覚。

神は、傷つくわけがない。誰も彼もがそう思っている。事実、そう思っていた……わたし自身でさえ。だが、それは間違っていたと、気づいた。寂しかった。寂しいという感覚が麻痺するほどに寂しかった。皮肉なことに、何も邪魔するものがなくなってあらためて気が付いた。何かを恨む必要がなくなって、知る。わたしはなんと独りなのだろう。静かな狂気で身体を満たしてようやく、絶望から逃れられたと思ったのに。



甲板には、なまえの姿。いつの間にでてきたのだろう。上下左右が滅茶苦茶に掻き回されるような落下の中、怪我をしていなければいいのだが……とこんなときにまでなまえの心配をしていることに気づきふいに笑ってしまった。反吐がでるほど甘ったるい。人を愛おしく思うとは、こういうことなのか。

なまえがかけよる。泣きそうな顔をして、子どもみたいに顔をくしゃくしゃにして。わたしの顔を撫で、身体中を確かめ、また泣きそうな怒ったような顔をして、わたしを思い切り抱きしめた。青海の猿に思い切りやられて折れた骨が痛んだが、その痛みが嬉しかった。痛みが嬉しいなんて。口の中は血の味がする。気分は最低の筈だった。地に墜ちたような気分だった。なのに。

「……なまえはわたしを憎んでいい」

なまえは、おれを抱きしめて、胸元にうずめるようにふせていた顔をあげる。八の字に情けなく眉をさげたなまえと目が合う。瞳いっぱいに涙をためていて、それにおれは苦笑する。笑うとあばらが少し痛んで、また咳き込む。なまえが心配そうにのぞきこむ。おれを抱くなまえの腕があたたかい。鼻の奥がつんと熱くなった。

「なまえは、おれを憎んでいい。……恨んでいい。その権利が、ある。わざと……いや、そんなつもりは、なかったが、蓋をあけてみれば、どうだ……なまえがおれに依存するように仕向けたも同然だ。攫って、人から隔離して、言葉がわからないのをいいことに独り占めして……あぁ……おれは、何がおかしくて、おかしくないのか、わからなくなるほどにおかしい」……そうだ、あの小娘がいったように、1人で望むものを手にいれていればよかった。寂しさに胸が切られそうになっても、独りよがりになまえを巻き込まない方がよかったのかもしれない。

人の身体を容赦なく力いっぱいに抱きしめたまま、いやいやをするように頭をふるなまえ。

「わたしこそ、ごめんなさい。ごめん、ごめんね」となまえは謝罪を繰り返す。いったい何に謝っているのだろうか。わからない。瞳を閉じて、おおきく、ひと息つく。なまえの甘いかおりがする。――これは、夢だろうか。わたしの願望がみせる都合のいい夢だろうか。ゆっくりと目蓋を持ち上げると、夜に目映く、夢にまでみた丸い月が輝いていた。

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