凍る心臓のスタッカート

マクシムは、戴く名に相応しく、まさに方舟であった―――神話のとおり、すべての動物のつがいを……とまではいかなくても、物理的また技術的に可能な限り、家畜、穀物、果樹その他諸々をのせ、雷と種々の貝(ダイヤル)を動力として、人力に頼らずとも自生を可能とするシステムを構築している。六年もの歳月を費やし完成させた叡智と技術の至高。しかし、広々とした船内に人の姿はなく厳かな静寂だけが満ちている。

その中の一室。入り組んだ迷路のような廊下の奥にひっそりと佇む扉は、頑丈な黄金の枠が嵌められている。さらに雷冶金にて錠が掛けられているため、それはエネルしか開けられない。その扉の前にエネルは立ち尽くす。部屋の中には意識を失ったままのなまえが寝台に横たわっているが、扉に手をかけて躊躇したまま。はっきりと明確に言葉にできない気味の悪い感覚が皮膚の下を這いまわり顔を歪める。

もし、なまえが目を覚ましていたとして、そうしたら、あの恐怖と嫌悪に染まった瞳でまた、わたしをみるのだろうか……

心臓を掴まれるようなその感覚を、人は罪悪感だとか臆病だとかいうのだが、エネルは慣れない感覚にただ胸を軋ませる。逡巡の後、重たい引き摺るような溜息を落とすと、扉にかけていた手を、黄金の錠にうつし、手のひらで錠をつつむ。白い閃光が迸ると雷冶金で溶けた錠が、そのまま手のひらから滑り落ちる。黄金でできたそれは、小さな見かけのわりに重量を伴い、ゴトリと床に落ちて音をたてた。それを、エネルは無感情の瞳で見下ろす。

――これで扉は開かれた。なまえは、逃げたければ、逃げればよい。………逃げたところで、逃げ場所などこの空にはもうないのだが。引き攣る顔で無理に笑みを浮かべるものの苦々しい気持ちが胸にひろがるばかり。

小さく頭を振るとエネルは部屋の前で踵を返す。そうして、一切振り返らず、おおきな歩みでマクシムを後にする。ゲームの幕は開けたばかり。………今更、なまえと顔を合わすのが怖いなど、そんな馬鹿げたことがあるかと嘯く。心の奥底では、出来れば、なまえが逃げださなければいいと、わたしから逃げるなど、どうか、してはくれるなと願いながら。薄々気が付いている感傷を押し込めるように、きつく目蓋を瞑った。



「ついていきます!!あなたに……夢の世界っ」

細い身体を震わせながら、健気に笑顔を取り繕って――あァ名前すらもわからない――娘が、恐怖に一度は屈した娘が、明確にわたしを拒絶する。それは、予想外の青海人の出現により、焦燥と興奮に神経を昂らせたわたしに、なまえのことを少しばかり思い出させた。目の前の娘は、容姿も気性もなまえとは似ても似つかない様子だというのに、なぜそんな風に思ったのだろう。恐怖に心が折れそうになりながらも、それを越える意思の力をもっての決死の拒絶の言葉を聞きながら、頭から足先まで冷えていく心地がした。心臓がゆっくりと脈を緩めていく。熱をもった身体の痛みの感覚がひいていき、代わりに身体が内側から灼ける様な気がした。

「このままあなたと行けば、私は1人ぼっちも同じ…!!」

気丈にふるまってはいるが、恐ろしくて仕方がないのだろう。女の声は微かに震えていた。だが、わたしはなにも言わない。女がいっていることが事実だと、おそらく、納得しているからだろう。

「望むものを1人で手に入れて何が楽しいの?」

そんな言葉がいまさらわたしに届くものか――直に向けられた刃のように鋭い皮肉に内心笑いそうだと思ったが、表情は相変わらず凍り付いたまま。娘。お前は思い違いをしている。

「…このままあいつらを捨ててあんたと一緒に行くくらいなら!!!」

そもそも、前提が間違えている。1人で手に入れて何が楽しいとお前は聞くが、1人で……あまりに独りで、途方もない孤独で、逃れようがない絶望を埋めるように何かを切望する気持ちが、わかるか?

「私もう!!!何もいらない!!!!」
「………命もだな」

命すらも擲つというのか。それほどまでに、わたしはおかしいか、化物じみているか――そんなこと、とうに知っている。いわれなくても、知っている。絶望は救済である。絶望にすべて諦めてしまえば、もう苦しむことはないのだ。悪戯に、誰かにそばにいてほしいと願うから、苦しむことになるのだと知っている。そんな鬱蒼とした気持ちで、わたしは笑った。

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