愛憎ワルツ

その日。神の社は恐ろしいほどの静寂に包まれていた――否、破壊に次ぐ崩落ののち、ようやく静寂に包まれたというほうが正しい。なまえは、呆然と立ち尽くすエネルをみつめる。雷(いかづち)に焼かれた残滓が、其処らから黒煙をあげてくすぶっている。無機質な静謐。生きるものの気配そのものが消えた空間。そこで立ち尽くすエネルは、能面のような無表情で、鬼神のようだとなまえは思った。

呼吸は全力疾走のあとのように浅くはやく、犬のようなそれを耳障りに思う。恐ろしくて、目の前の人物を平穏無事にやりすごしたくて、いっそ呼吸を止めてしまいたいほどなのに、恐怖で震える身体はままならない。歯の根があわずに、かちかちと音をたてた。

エネルは平然としていた。いつもと寸分違わず落ち着いていた。それがいっそうなまえに恐怖を募らせる。今まで世話になっていた神官侍女侍従に、無慈悲に、淡々と手を掛けていく様子が怖ろしかった。叫ぼうが逃げようが隠れようが、単純作業のようにひとりひとり潰していく様を、エネルに引き摺られるようにして、最も近い場所でみせられたのだ。――なまえさま、と縋るような声に対して、絶対的な恐怖で引き攣る喉は、叫び声すらあげられなかった。いっそ気を失ってしまいたいと思った。気絶して、目覚めたらまたいつもと同じ平穏な日常があればいいと。

本能的な恐怖に、おそらく酸欠もともない、頭がひどく痛んだ。頭痛と吐気になまえがうめくと、エネルは初めて表情を変え、頭を抱えるなまえに、心配そうに視線をあわせ、そっと手を差し伸べようとする。おそらく、頬に手を添えて、顔色を伺おうとしたのだろう。

―――その手を、咄嗟に振り払ってしまったなまえを責められるものはいるのだろうか。ぱしん、と乾いた音をたてて、エネルの手が叩き落とされる。なまえは呆然とした顔をした後、すでに紙のように血の気の失せた白い顔で唇を戦慄かせた。大きく見開かれたその顔は恐怖に染まっている。エネルは、子どもがそうするように、何が起こっているのかわからない、という無防備な表情をしたあと、一瞬、顔を歪め、それから平素と同じ思うところを伺わせない憮然とした顔を繕う。

「………たとえ、おれのことが怖ろしくても、おまえに他に居場所はなかろう」

ぽつりと落とされた呟きには、ひどく寂しげな色が滲んでいたが、なまえに気が付く余裕はない。恐怖に身体も思考も凍る中、エネルの腕がなまえを抱え上げる、その瞬間、ようやくなまえは叫び声をあげたものの、電に撃たれ、すぐに喉の奥で潰えた。



懐かしい痛みだとおもった。かつて、どこかで感じたことがある痛みだと。なまえに差し出した手を振り払われた瞬間、おもった。――あの顔。恐怖と微かな嫌悪がにじむ顔。脳裏に忘却したはずの記憶が甦りかけ、顔が歪むのがわかった。神とは名ばかりの化け物だと、己を呪った日々を。自己を嫌悪し、呪うのに厭くまで孤独に過ごし、そうして恐怖こそが神であると悟るまでの日々を思う。

恐怖こそが神である、ゆえに、なまえがわたしを怖れるのも、きっと、仕方がないこと。だが、何故だろう、なまえにだけはそんな風に思われたくなかったと。そう、思ってしまった。神として……恐怖の対象として、みられたくないと。わたしは意識を失ったなまえを抱えると、マクシムに運び込む。

賽はとうに投げられた。雲でもないのに空に生まれ、鳥でもないのに空に生きる不条理を正し、還幸を果たす日が来たのだから。せめて、華々しいフィナーレを飾ろうじゃあないか。……それしかお前には望めることがないのだから、と胸の内に浮かんだ忌々しい声には耳を塞ぐことにした。

胸の中に、意識を失ったままのなまえを抱きながら、思う。―――最初はただ、なまえの存在に惹かれた。おそらく異界からやってきたであろうなまえは、誰にも理解されず、誰も理解できない、……まるでわたしと同じ存在だと思い、確かにそれを喜んだ。孤独で孤立した存在。寂しさなどまったく自覚していなかったはずなのに。我こそが神であると確信していたし、確かに神であった。なのに、なまえが現れてから、何かが変わりつつあった。なまえが笑うと嬉しくなる。なまえが悲しむと胸が痛くなる。なまえのことを考えて一喜一憂する己に気づき―――まるで、感情を持ったただの人のようだと思い愕然とした。膿んだ傷口からどろりとした血液が流れでるように、胸がじくじくと痛む。目に見えないままに、赤黒い血が滴っている。胸が苦しい。あぁ、おれをただの人に戻してしまう、なまえが憎くて愛おしい。

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