翌朝、目をさますと、クロコダイルの姿はありませんでした。もうワニの姿にもどってしまったのでしょうか、シャツがベッドの上に、ズボンは床に脱ぎ捨てられています。なまえは眠たいまぶたをこすって、シャツに手を伸ばします。麻のゴワゴワするシャツです。いつも着ている、絹のサラサラした肌触りとは違います。それが、昨日の特別な冒険の名残りのようにおもえました。
そっと胸元に抱きしめると、クロコダイルのにおいがします。独特の甘いにおいのせいか、不思議と胸がドキドキと高鳴ります。
どれくらいそんな風にしていたのでしょうか?コンコン、と扉をノックされる音で、なまえは我にかえります。シーツの下に、焦ってシャツとズボンを乱暴につめこんでから、取り繕った声で、どうぞ、と返事をします。
扉から顔をだしたのは、古参の女中です。なまえは、動揺をごまかすために、わざとらしくベッドの上でのびをして、まるで「今、目が覚めました」なんて顔をします。そんななまえに苦笑してから、おはようございます、と声をかけました。
「姫さま、そろそろ婚礼用のドレスを準備しなければなりません」
「………あら、もう、そんな時期?」
「えぇ、そうですね。収穫期が終わって、皆の手があくころですからね。盛大にお祝いいたしましょう。姫さまは、最近ほんとうにお綺麗になられましたから、きっと、ドレスがよくお似合いになります」
さあ、忙しくなりますよ?と彼女は穏やかな笑みを浮かべると、静かに部屋をさります。それを、なまえは複雑な気持ちでみつめていました。ずっと着るのを楽しみにしていた立派なドレスですが、なぜか心が浮かないのです。
「どうしたのかしら、わたし………」
なまえはひとり、呟きます。まだ顔もみたことのない王子の姿は、何度も夢想しては胸をときめかせていたのです。なのに、いま、頭の中に浮かぶのは、怖い顔をして、意地悪で、優しくするのが下手なクロコダイルの姿でした。
その日は、夜までクロコダイルの姿をみることはありませんでした。いつも、「さも当然」といった顔で、なまえの膝の上に陣取り、嫌がるなまえに手ずから食事を与えさせることを楽しんでいたというのに。
クロコダイルが姿をみせたのは、夜更け近くになってから。いつもより少しばかり荒んだ雰囲気で、近寄るとふわりと酒のかおりがしました。なまえは驚いて、尋ねます。
「どこにいっていたの?」
「なまえには、関係ない」
それなのに、つれない答えで、なまえと目を合わせようとはしません。シャツの釦を外しながら、どさりとベッドに腰をおろします。そんなクロコダイルの前に、なまえはよって声をかけます。一緒にいられる時間に限りがあるとわかった今、あまり無駄な時を過ごしたくはなかったのです。
「ねぇ、わたし、結婚することになったの」
「――知ってる」
しばしの静寂の後、重たい沈み込むような声が、返ってきました。それでもまだ、目はあいません。なまえはさらに続けます。
「あのね、遠い未来の話じゃなくて、近い将来、婚礼をあげるんだって」
「………それも、知ってる」
クロコダイルが、そっとなまえの手を掴みます。顔はふせたままだから、表情はうかがえないけれど、話は聞いてくれているのだとわかります。
「なぜかしら。前は、なにも思ってなかったのよ?だって、そうするのが当然だと思っていたんだもの。お母さまも、そうしてこの国にいらしたと聞いたわ。なのに、おかしいの。わたし、それが、嫌みたい……」
途中から、涙がなまえの瞳からぽろぽろと零れ落ちます。泣くつもりはないのに、涙の粒だけが次から次におちてくるのです。気づくと、しゃくりあげるようにしてクロコダイルに抱きついていました。暖かい胸に抱きとめられ、静かに涙を流します。
「………泣くんじゃねぇよ」
クロコダイルがようやく視線をあわせました。苦々しく顔を歪めながら、なまえの目の端に浮かぶ涙を掬いとるように、指をはわせます。それなのに、涙はとまるどころか、さらに溢れだしてくるのです。胸は早鐘をうち、苦しいほど。手のひらから伝わるクロコダイルの暖かい体温が、不器用な優しさが、胸をしめつけるのです。
「どうして、あなたは、ワニなの……」
「………どうしてだろうな」
噛みしめた歯列の間から零れでた声は、酷く口惜しそうで、それがまたなまえの心臓を苦しくさせました。