終幕への序曲

或る夜のことだった。月がちょうど満ちた夜。小さな星々の輝きを掻き消しながら煌々と夜空に浮かぶ月はあまりに完璧で、思わず息を呑むほど美しく、そのせいか不気味な印象すらあった。人を惹きこむ強い魅力は、ときに人を遠ざけもする。

淡い月光が、月を見上げるエネルの横顔を照らしだしていた。やわらかい白い光が、鋭い印象を与える輪郭を包み込む。それを静かにみつめていたなまえに、ふと、エネルが声をかける。

「みろ、なまえ」

エネルが緩慢と腕をあげて指差す先になまえは視線を向ける。長い指の先に在るのは空に浮かぶ真円。なまえは瞬きを繰り返す。みろ、といわれたところで、今日は満月か、という程度の感想しか浮かばない。そんな様子のなまえには構わず、エネルは続ける。

「あの空に浮かぶ天体を、わたしの生まれ故郷では限りない大地(フェアリーヴァース)と呼ぶ」

なまえは耳慣れない言葉に微かに眉を顰めたものの、ちいさく頷いた。

「わたしは幼い頃、空島に住む人は、元々限りない大地に棲んでいたと教えられた。あそこは神の居る土地だ、とも。ビルカ――わたしの生まれ故郷には、古くからそういった伝承がある。そして、それは空想の産物などではなく、かつての事実であると、わたしは信じている」

空に島が浮かび、雲に人が住む世界のこと。人がかつて月に住んでいたとしても、不思議はない。そして、そこに神がいることも。そう思ってなまえはまたひとつ、頷く。それをみたエネルは、そうっと表情を緩ませた。なまえの細い肩に腕をまわして、身体をひきよせると、なまえは大人しく身を任せる。


「なぁ、なまえ」

エネルの呼びかけに、なまえはぼんやりと月に彷徨わせていた視線をエネルに戻す。そこにあるのは青灰色の瞳。光の加減によって青味が失せ、透きとおる色はあまりに綺麗で、どこか恐ろしかった。今宵の月に似ていた。まるで感情を映さない硝子の瞳のようだとなまえは思う。

「いま、人は、月に還ることも叶わず、地に落ちることも拒み、空中に浮く雲に、中途半端にしがみつくようにして生きている。なんと惨めで、醜いことだろうか。土には土の、人には人の、神には神の還るべき場所がある」

―――確かに此方をみているはずなのに、エネルの瞳は此処ではない、何処か遠くを見つめている気がした。そして、そのせいか、わけもなくなまえの胸は騒ぐのだ。嫌に胸がつかえる感じがする。ぞくりと背筋が粟立つ。何故か、理由はわからない。

「あぁ、だが、それでは、なまえは何処に居るべきなのだろうか」

ぽつりと、エネルが零すように呟いた。そうして、思案するようにゆっくりと顎を撫でる。複雑そうに顔を顰めて、考え込むエネルをなまえはただ見つめる。そのまま、どこか苦い表情でエネルが口を開いた。なまえを見つめる冷たい色をした瞳は、寂しげな雰囲気を湛えていた。

「おれは、なまえを傍においておきたい。たとえ、それが自然の摂理に反していることであっても、構わないとさえ思うのだ。………この感情は、いったい何なのだろうな」

独り言のような呟きに、なまえは答えられず、困惑したままエネルをみる。その視線から逃げるように、さらになまえを抱き寄せると、胸元に掻き抱いた。とくん、とくんと優しい心臓の鼓動が響く。なまえはそっと目を閉じる。それでも、瞼の裏に甦るのは、ぞくりとするほど美しい、満月に、エネルの瞳。何故か、言葉にすることはできないけれど、月と、それに憑りつかれたような瞳の色が、恐ろしく思えて仕方がなかった。

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