「Mi sei mancato」
「会いたかった」
「会いたかった」
煙草の箱を胸元からとりだし、指先で底をたたく。飛び出た煙草をひとつ、唇に咥えたところで、ようやく何をしているか気が付いた。
甘いかおりのただよう洋菓子店を前にして、気休めに煙草を口にしようとしていた。昨晩、あれだけ気の所為に違いない思い過ごしだ、と何度も繰り返したのに、効果はなかったようだった。舌打ちをして、咥えた煙草をしまう。
身体の奥底から緊張が這出て、内臓をジリリと焦がしている。
腹の据わりが悪い。どうにも落ち着かず、意味もなく、靴底で足元を確かめるように踏みしめると、砂利が鳴った。
―――いったい、おれは、何をしている。眉間には皺がより、目元の皮膚がひくついた。女ひとり相手に右往左往するような年齢でもないだろうが、と。理性はいたって冷静な判断をくだしているというのに、慌しい心音は収まってくれそうもない。
手早くかつ迅速にすませてしまうべきだった。何でもないことなのだから。時間を無駄にする余裕はない。スケジュールは詰まっている。無理に捻じ込んだ予定であり、実際、表の通りに車を待たせている。何の理由も知らされていない運転手が、気を揉みながら今か今かと帰りを待っていることだろう。次の予定が迫っている。無為に時間を潰すことはできない。
扉に手をかける。ふんわりと甘い色をした扉は、あきれるほどあっさりと開いた。
―――からんと鳴った軽やかな鈴の音が、心臓のどくりと跳ねる脈動と重なった。
「いらっしゃいませ!」
愛想の良い声と笑顔に出迎えられる。一瞬、目が合った。が、その顔に不思議そうな表情が浮くのをみて、なぜか居たたまれない心地がして視線を逸らしてしまった。
ケーキのショーケースにかわって、焼き菓子の棚と向き合う。頬に彼女の視線を感じる。やはり、顔は覚えられているのだろう。それが彼女にとって特別なことかは、わからない。
いまはどうでもいいことだった。適当に目についたマドレーヌとクッキーを手に取って彼女のもとへ向かう。
「ありがとうございます。今日は、ケーキはよろしいんですか?」
「……あぁ、今日は、いい」
彼女が手慣れた様子で袋に菓子をつめていくのを妙に緊張したままみつめ、そうして会計をすませる。手提げ袋を渡す際に、彼女は遠慮がちに微笑んだ。
「昨日もいらしてくれたのに―――、ありがとうございます」
その瞬間。気の所為だと言い聞かせてきたのに、それを裏切るように鼓動が跳ねた。そうして気づくと、熱に浮かされたような呟きが零れた。
「いや、今日は、貴女に会いにきた」と。
迷いが滲んだ声だった。いうべきか、いうべきではないか。悩んだのに口にしてしまったのは、何故だろうか。いってから後悔に顔を顰めた。―――いったい、おれは、何をしている。はたと我に返り、焼き菓子を受け取ると背を翻してすぐに店内を後にした。
道すがら、先程の光景を反芻する。焼き菓子を受け取る瞬間のなまえの顔を思い返す。あれは、見間違いだろうか。彼女の頬は、またたくように紅く染まったように見えた、だがそれは、己の願望によるところではないのか。
意図せず素直な心境を吐露してしまったことを恥ずかしくおもい、視線から逃れるように顔を逸らしたせいで、いまとなっては確認しようもないが。―――いや、だがいっそ、それはいい。
それよりも、なによりも、困ったことがあった。どうやら、気の所為でも思い違いでもなく、おれは、年甲斐もない思いに囚われてしまっている。それにとうとう気づいてしまった。