まわる世界

実験室には、シーザーとなまえのふたりだけだった。深とした重たい静寂。時折、シーザーが紙を捲る音が響く。そんなシーザーをなまえが少し離れたパイプ椅子に腰かけて眺めている。打ち放しコンクリートの壁に囲まれ、蛍光灯の無機質な光に照らされる部屋は、どこか寒々しい。

「ねぇ、シーザー」

なまえがシーザーに声をかける。―――また、無視。なまえは微かに眉を顰めた。シーザーは、ツンとそっぽを向いている。聞こえないふりをして、実験結果に視線を落としている。口がへの字に曲がっていた。猫みたいなつり目が、つまらなさそうに細められている。わざとらしいくらいの不機嫌顔。

「マスターってば!」

また、無視。今度は目元がピクリと動いた。でも、まだ返事をする気はないらしい。なまえは、胸の中でひとり、溜息をつく。拗ねている。シーザーが、それはもうわかりやすく。ちょっと前までは、重たい陰を背負って沈み込んでいたのに、いまは拗ねている。

「あっ、あんなところにローさんが!」
「……なんだとッ!」

シーザーの後ろにある扉の方を指さしながら、不機嫌の原因であろう名前を呼ぶと、キッと眉をつりあげて振り返った。でも振りかえった先に、もちろんローはいない。はて、と首を傾けたシーザーは、不思議そうに瞬きを数回繰り返して、またむすっとした顔に戻ってしまった。

「嘘です、聞こえてるんじゃないですか。なんで相手してくれないんですか?」
「………」
「あー、また聞こえないふりっ。聞こえてるんですよね?」

シーザーが、拗ねてる。そして臍を曲げてる理由すらも教えてくれない。いくらなだめすかしても、どうにもならなかった。なんとなく、察しはついているけれど。仕方ない。こうなったら、実力行使だ。こちらをみようとしない横顔をみつめながら、そっと立ち上がる。椅子がキィと音をたてた。シーザーは動かない。気づいていて、動かない。

たっているシーザーの背中に、うずまるように抱きつく。やわらかい藍色の髪の毛が鼻先をくすぐった。つんとした薬品と、よくわからない清潔なにおいがした。

「シーザー……?」

名前を呼んでも返事がない。これは機嫌を直してもらうの、なかなか骨が折れるぞと思っていたら、黙り込んでいたシーザーがふいに、ぽつんと落とすように呟いた。

「……………おれが、おれの手で、なまえを治してやりたかった」

その言葉に、きゅうと胸が締め付けられた。じわりと視界がにじみそうになるくらい。―――知ってます。あなたを誰よりずっとみてきたから。わたしのために頑張るあなたをみてきたから、知ってます。そう思って、抱きしめる両腕に力を込めた。

シーザーは、手に持っていた紙の束を机におくと、抱きつくわたしの手の上に、手のひらを重ねた。そうして、しばらくじっと互いの温もりを久しぶりに味わっていた。

取り繕う言葉はいらなかった。シーザーだって、きっと、必要としていなかった。理屈では納得できても、感情がついてこなかったんだと思う。それでも。

「でも、シーザー。わたし、この先、10年も20年もあなたの傍にいられると思うと、嬉しい。いま、わたしの心臓が動いていて、全身の神経が生きていて、シーザーに抱きつけて、あなたの体温が、命が感じられるとおもうと、嬉しくてたまらない」

素直な心情の吐露だった。ひとりで溺れて静かに沈むように死んでいくと思っていたのに、シーザーに出会って光が射したのだ。壊れて静止しかけていたわたしの世界がまわりはじめた。

シーザーがもぞりと身をよじって、正面からわたしを抱きなおした。ようやく視線が合う。めずらしく照れくさそうな顔をしている。それが逸らされると、唇を尖らせたシーザーが口を開いた。

「………あと、ローは、……見ただろ」と、小さな声は歯切れが悪い。
「えっ……?」
「だから、なまえの、」
「わたしの?」
「身体………」

いってから、シーザーの頬がぽっと紅く染まった。―――しょうがない人。呆れた溜息がでるのに、それでも可愛くてしょうがないと思うわたしも、きっともう手遅れ。

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