「ね、モモンガさん。ここ、切れてますよ」
とんとん、と隣に座る女が指をさしたのは、唇の端。いわれて指で触れてみると、確かに、むず痒いような、ぴりりと焼けるような痛みを覚えた。
「乾燥しているのね。海にでて、日に焼けて、風にあたって、すっかり水分が奪われてしまったのでしょう。海兵さんは、たいへん」
そういうとにっこりと口の端をつりあげて笑う。その唇には綺麗に紅がひかれていて、艶々と潤っていた。それをみているとどうも落ち着かない気分になり、目を逸らす。
「……それが職務だ。仕方あるまい。それに、乾燥くらい、どうってことはない」
ちびりと、手元のグラスを傾ける。冷たい液体が喉元を通過したかと思うと、アルコールが粘膜を熱くさせるが、今に限って、やたらその熱を意識してしまう。グラスをまわすと、涼しげな氷の音がする。それにつられるように、もうひと口、酒を含んだ。
彼女、――なまえがわたしは、苦手だった。いや、嫌いだとか負の感情をもっているから苦手、というわけではない。なまえを前にすると、どうしてか、落ち着かない気持ちになるからだ。腹の据わりが悪くなる。そのせいか、自然と酒のペースが速くなる。それでも会わずにはいられない。帰港するたびに彼女の居場所に足を向けてしまう。
「唇に、リップバームを塗ってみるのはいかが?無色透明で無味無臭のものもあるし」
「男が、そんなものを人前で塗れるわけがなかろう」
「あら、でもいまどき若い男の子は結構気をつかっているわよ?」
なまえの唇から、若い男などという言葉がでたことが、不思議と気に食わず、返答はつい無愛想なものとなってしまう。
「いらん」
「……そんなこといわずに、試して御覧なさいな」
そっと、なまえの右手がわたしの左手に重ねられた。その、意外な体温の高さよりも、今までまったくといっていいほどなかった皮膚の接触に動揺し、なまえをみやる。すると、彼女は顔を寄せて、ゆっくりと、唇を食むような口づけをした。生暖かくしっとりとした感触の唇が、吸いつくように触れ、またゆっくりと離れていった。
「……なまえ、わたしを、からかっているのか?」
紡ぐ声は震えた。無骨者という自覚はあった。遊び慣れていないという自覚もあった。それゆえ、からかわれていると思ったのだ。面倒くさい男女の駆け引きは、興味もなければ理解もできなかった。
「―――いいえ、モモンガさん。ねぇ、気づいてらした?あなたに絡めたわたしの右手、ずっと震えてるの。緊張してしまって。もう生娘というような年齢でもないのに、狂おしいくらい、あなたに片思いしているのよ。それなのに、ちっとも気づいてくれない」
哀しそうに微笑む彼女の右手は、なるほど、確かに小刻みに震えている。それに気づいた瞬間、小さく背中を丸める彼女が、白く細い彼女の手が、愛おしいと思った。目を伏せて、物思いに沈んだ様子の彼女を、そっと抱く。そうして、ひとつ息を吸って呼吸を整えてから、なまえに口づけた。まるで、身体が知っていたかのように、存分に彼女の唇を味わった。
離れるころには、紅が移っていたのだろう。なまえがくすりと笑うと、わたしの唇を指先でぬぐった。
「やはり、唇になにかがついている感触は、気持ちが悪いな」
「モモンガさんがそういうのなら、もう、なにもつけないわ」
あなたのキスはなによりも素敵だから、そういって微笑む彼女の唇は、紅が落ちているはずなのに、先程よりも美しく思えた。