いつものように、森の中で果実を集めていたときだった。がさりと茂みが揺れて、振り向いてみると、そこに懐かしい顔があった。町にいたときの知り合い、猟師のおじさんがそこにいた。
「…………なまえちゃんかい?」まさか、と言った声に反応して顔をあげる。
「あぁ、やっぱりなまえちゃんだ……!どうしたんだい、いきなり町からいなくなってしまって。みんな心配しているよ」
わたしも、驚きに一瞬言葉を失ってしまう。
「それが……その、」
クロコダイルのことをなんといえばいいのかわからず、言い淀んでしまった。もしかしたら、逃げられるかもしれないと、確かに、思った。でも、いえなかった。助けを求める言葉がでてこない。あの、寂しそうなクロコダイルの瞳がチラついて、どうしてか言葉がでてこない。
人の良さそうな顔をしたおじさんが、歩みをすすめて近づいてくる。ふと、危ない、と思った。
背後から、獣の唸り声が聞こえた。
野生の獣の、怒れる声だった。それに気づいたおじさんが、猟銃を抜くよりはやく、黒い影が襲い掛かるのが見えて、わたしは、思わず叫んでいた。
「クロコダイルッ、だめッ!!!」
気づくと、クロコダイルのおおきな身体が、おじさんの身体を地面に縫い付けるように組み敷いている。腰からのぞくシッポが怒りに逆立ち膨らんでいた。片手が首にかかり、もう片方の手には刃物のように鋭く尖った爪が光っていた。それが、まさに振り下ろされようかというところで止まっている。荒い獣の息遣いが響く。強く噛みしめられたクロコダイルの牙の隙間から、空気が抜けるように漏れている。
「あっ………、おじさん、逃げてッ」
いけない、このままではおじさんの命が危ない。震える足を無理やり動かして、かたまるクロコダイルの身体に飛びついた。反射的にこちらを見た、薄黄色の瞳が、野性の焔をともして不気味に輝いている。背中にまわした腕が震えた。細い眉が、辛そうに歪められている。
クロコダイルの下からようやく逃れたおじさんが怯えた顔で、ずりずりと腰を抜かしたまま後退していくのをみる。だめだ、あれじゃ、遅すぎる。
「――――ッはやく!」
苛立ったようにもう一度叫ぶと、跳ねるようにおじさんは立ちあがって、後ろもふりかえらずに走り出した。反射的に、クロコダイルの身体がおおきく揺れた。それを制するように、ぎゅうぎゅうと抱きしめる。
本気をだしたら、わたしの身体を振り払うことくらい、わけないだろうに、そうしないところをみると逃がしてやることにしたのかもしれない。ほっと胸をなでおろす。
クロコダイルの荒い息遣いが、だんだんと落ち着いてくる。普段はピンとたっている耳が、悲しそうにたれた。怒りに膨らんでいたシッポも、すでに萎んでしゅんと力無くなっている。俯いたまま、クロコダイルが口をひらく。
「なぜ、殺させなかった、なまえ……、あいつは町にいって助けを呼ぶだろう。おれから、そんなに逃げたいのか………」
クロコダイルのあまりに寂しそうな呟きに、胸が苦しくなった。そうではない、と否定してあげたかったけれど、安易な慰めな言葉はいえなかった。この獣に、逃げ出したいほどの恐怖を感じるのも、また事実だった。
「……どうして、どうしてそんなにわたしを捕まえておきたいの?」
声が小刻みに震えた。でも、どうしても聞いてみたかった質問。殺しも、悪さもしないで、ただわたしを捕らえて甘やかすだけ。クロコダイルの態度はとても不可解なものだった。
その質問に返されたのは、悲しげな眼差しだった。眉間にはたっぷりと皺がよせられている。口を開くか、黙っているか、悩んでいるような様子だった。しばらく逡巡して後に、あきらめたように、クロコダイルは溜息をついた。
「………おれがまだ、ほんの小さな子供だったとき、傷の手当てをしてくれたのはお前だろう?」
そういうと、座ったまま、壊れ物を扱うのよう優しく、クロコダイルが正面から抱きしめてきた。とくとくと心臓が音をたてている。抱きしめられ、熱をかんじながら、どういうことだろうと疑問に思っていると、クロコダイルがわたしの片手をとった。
それを己の頬へと持っていく。指先に、顔を走る痛々しい傷が触れる。
「この傷、罠にかかってもがいていたときにできたこの傷を、なまえが手当てしただろう。そうして、罠から逃がして、血塗れのおれを抱いて連れて帰ってくれた」
傷を、指先でおそるおそるなぞった。金属で引き裂かれたかのような、この酷い傷の、手当てをしたのがわたし―――?記憶が曖昧で、眉間に皺をよせて思索する。
「あの小さくて暖かい手に優しいにおいが、忘れられなかった。思いだすと、わけもなく、懐かしくてたまらなくなる」
じっとクロコダイルがわたしの眼を覗き込む。薄黄色なのに、光の加減で黄緑のようにもみえる綺麗な瞳。みつめていると、どうしてか落ち着かない。
「あの家のあたりには、あれからも何度かいった。人間なんて反吐がでるが、どうしても、一目、見たかった。それが、どうだ。いつの間にか、消えやがって――――、あんな、置いてかれるような思いは二度とごめんだ」
家に連れて帰ってきた?
「………もしかして、あの黒い子犬?」
「……犬じゃねェよ」
クロコダイルが嫌そうにいうけれど、視界の端で、嬉しそうにシッポが揺れた。
「久しぶりに、お前の姿をみて心が躍った。もう、逃がしてなるものかと思った。だが、てめぇはおれのことを憶えてすらいない」
不満そうな声に、思わず言い訳が口をついてでる。
「そんな………だって、あんな小さくて震えていた子犬が、あなただと思うわけがないじゃない」
いいながら、その黒髪に指をとおした。綺麗でまっすぐな硬い毛は、いわれてみると、あの子犬を思い起こさせる。
「……犬じゃねェといってんだろうが」
クロコダイルが低く唸る。なのに、シッポは嬉しそうにパタパタと揺れている。クロコダイルの声がいっそう低く、掠れた。腰に響く低音だった。
「――――なぁ、なまえ。もう、おれをおいてはいかねぇだろう?」
厳しい双眸が、きつく細められる。ぎゅうと心臓を掴まれた気がした。射抜く視線の鋭さに、わたしは、頷くことしかできなかった。こんな大きな身体をしておいて、不釣り合いな程、瞳が必死だったから。
こうして、わたしはこのおおきなケモノの飼主となったのだった。